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オフィシャルペーサーで得られた経験
第15回いわきサンシャインマラソン公式ペーサー text:Shun Sato RRCにペーサーの打診 2024年2月25日、第15回いわきサンシャインマラソンが開催された。 2000人のスタッフ・ボランティア、沿道で大勢の人が見守る中、5358人のランナーが出走したが、このレースでペーサーを任されたのが、RETO RUNNING CLUBだった。 キッカケは、大会運営担当者からRETO RUNNING CLUBコーチの高木聖也への打診だった。 「大会運営担当の方と知り合いで、RRCとして何かできないかという話をしている時、前年大会でペーサーがミスってしまったという話が出たんです。運営としては今回、同じミスは許されない。その時、ペーサーとしてご協力していただけませんかという話があったんです」 ペーサーを受諾すべきか否か 大会日程は、2月25日(日)だった。 レース当日は、大阪マラソンとかぶり、東京マラソンの1週間前、名古屋ウィメンズの2週間前に当たる。RRCのチームポリシーはそれぞれの目標を達成することにあり、それらのレースにエントリーしているメンバーが多数いた。 「メンバー個人の目標達成にとっては、ポジティブではない影響になる可能性もあるその時期にペーサーを引き受けていいものなのか、考えました。でも、僕らは個々が目標達成を目指して頑張っているのと同時に、メンバー間でお互いの目標の達成をサポートしていこうという文化があるじゃないですか。よく、メンバーから「RRCに入ってマラソンは団体スポーツだと思うようになりました」という声もあがります。大会に参加する多くのランナーの目標達成をサポートするペーサーという役割は、RRCの良さを自然にいかせるし、意味のあることなんじゃないかなと考えました」 手を挙げた8名のペーサー 受諾の返答をした後、RRC内でペーサーの募集をかけた。最終的にサブ3が高木コーチ、サブ3.5が新沼径さん、小倉昌さん、サブ4が中村修さん、平野寿謙さん、サブ5が成相陽平さん、三木俊弥さん、サブ6が金美淑さんに決まった。 「ペーサーの設定は、最終的に僕が決めさせてもらいました。一番大変だったのは、サブ6ですね。RRCのメンバーは普段走らないペースなので、引っ張ることが難しい。しかも、前年の大会ではそのペース設定でミスが起きたそうです。その設定を担当した金さんは大変だったと思いますが、事前に細かいタイムスケジュールを作られるなど入念に準備をして臨んでくれました」 8キロ関門通過を死守 そのサブ6のペーサーを任された金さんは、今回の応募動機について、こう語る。 「2020年に右胸にあった良性腫瘍の摘出手術をしたんですけど、昨年の健康診断で再び引っかかったんです。再発はしていなかったのですが、炎症を起こしていて次回の経過観察次第では走れなくなるので、走れるうちにいろんなことにチャレンジしておこうと応募しました。でも、私は遅いので『選ばれないだろうな』と思っていたんです。そうしたら聖也さんから連絡が来て、嬉しかったんですけど、サブ6の担当は私ひとりだったので、けっこう不安がありました」 最大の不安は、8キロ地点を含む5か所の関門をどうクリアするかだった。そのため金さんは各関門の通過を目指して、1キロごとのラップとエイドでの休憩時間を書き記し、それをビニール袋に入れてスタートした。 「いろいろ用意していったのですが、サブ6ぐらいの人って、関門の閉鎖時間だけが必要で、1キロごとのラップとか、必要ないんですよ。とにかく、最初の8キロの関門が気になっていたので、『あと、残り何分です』と大きな声で言いながらギリギリの人をフォローして前を追いかけて走るみたいな感じでした」 後半は、歩く人が増え、エイドでは食べ物など、エネルギーになるものがなくなっていた。金さんは自分用に持っていたジェルやタブレットをランナーに渡し、坂道で足がつっている人にコムロケアのゼリーを提供した。ペーサーというよりもナース的な役割を果たしていたのだ。 「最後は、『ちょっと速いよ』とか言われましたが、なんとかゴールできてホッとしました。ゴールすると運営の人が「時間通りにみなさん走り切れてよかったです。ありがとうございます」と喜んでくれて(笑)。マラソンを走って感謝されることってないですけど、感謝の言葉をたくさんいただきましたし、飲みものやつみれ汁を用意してくれるなど、手厚い待遇がうれしかったですね。ただ、やっぱりひとりのペーサーはキツいです。トイレも行けないですし、何かアクシデントがあったら対応できないじゃないですか。いくら遅くても責任は、サブ3もサブ6も変わらないので」 いわきに来た意味 サブ5担当の成相さんは、ペーサーの応募動機について、こう語る。 「今回、応募したのは、公認レースのペーサーにチャレンジしたかったのと、RETOの仲間と地方に行くことに魅力を感じたからです。ペーサーは初でしたが、つくばでなな(野崎七菜子さん)ちゃんと並走して、良い思い出が作れましたし、湘南国際で応援しながら走った時、記録を出すだけがマラソンじゃなくて、応援したり、サポートするのも楽しいなって思ったんです」 成相さんが今、目標とするサブ3.5のペースは4分57秒で、ペーサーの仕事であるサブ5は7分06秒ぐらいだ。レース前、皇居でサブ5のペースで試走すると遅すぎて走れず、スローで行っても6分45秒だった。...
オフィシャルペーサーで得られた経験
第15回いわきサンシャインマラソン公式ペーサー text:Shun Sato RRCにペーサーの打診 2024年2月25日、第15回いわきサンシャインマラソンが開催された。 2000人のスタッフ・ボランティア、沿道で大勢の人が見守る中、5358人のランナーが出走したが、このレースでペーサーを任されたのが、RETO RUNNING CLUBだった。 キッカケは、大会運営担当者からRETO RUNNING CLUBコーチの高木聖也への打診だった。 「大会運営担当の方と知り合いで、RRCとして何かできないかという話をしている時、前年大会でペーサーがミスってしまったという話が出たんです。運営としては今回、同じミスは許されない。その時、ペーサーとしてご協力していただけませんかという話があったんです」 ペーサーを受諾すべきか否か 大会日程は、2月25日(日)だった。 レース当日は、大阪マラソンとかぶり、東京マラソンの1週間前、名古屋ウィメンズの2週間前に当たる。RRCのチームポリシーはそれぞれの目標を達成することにあり、それらのレースにエントリーしているメンバーが多数いた。 「メンバー個人の目標達成にとっては、ポジティブではない影響になる可能性もあるその時期にペーサーを引き受けていいものなのか、考えました。でも、僕らは個々が目標達成を目指して頑張っているのと同時に、メンバー間でお互いの目標の達成をサポートしていこうという文化があるじゃないですか。よく、メンバーから「RRCに入ってマラソンは団体スポーツだと思うようになりました」という声もあがります。大会に参加する多くのランナーの目標達成をサポートするペーサーという役割は、RRCの良さを自然にいかせるし、意味のあることなんじゃないかなと考えました」 手を挙げた8名のペーサー 受諾の返答をした後、RRC内でペーサーの募集をかけた。最終的にサブ3が高木コーチ、サブ3.5が新沼径さん、小倉昌さん、サブ4が中村修さん、平野寿謙さん、サブ5が成相陽平さん、三木俊弥さん、サブ6が金美淑さんに決まった。 「ペーサーの設定は、最終的に僕が決めさせてもらいました。一番大変だったのは、サブ6ですね。RRCのメンバーは普段走らないペースなので、引っ張ることが難しい。しかも、前年の大会ではそのペース設定でミスが起きたそうです。その設定を担当した金さんは大変だったと思いますが、事前に細かいタイムスケジュールを作られるなど入念に準備をして臨んでくれました」 8キロ関門通過を死守 そのサブ6のペーサーを任された金さんは、今回の応募動機について、こう語る。 「2020年に右胸にあった良性腫瘍の摘出手術をしたんですけど、昨年の健康診断で再び引っかかったんです。再発はしていなかったのですが、炎症を起こしていて次回の経過観察次第では走れなくなるので、走れるうちにいろんなことにチャレンジしておこうと応募しました。でも、私は遅いので『選ばれないだろうな』と思っていたんです。そうしたら聖也さんから連絡が来て、嬉しかったんですけど、サブ6の担当は私ひとりだったので、けっこう不安がありました」 最大の不安は、8キロ地点を含む5か所の関門をどうクリアするかだった。そのため金さんは各関門の通過を目指して、1キロごとのラップとエイドでの休憩時間を書き記し、それをビニール袋に入れてスタートした。 「いろいろ用意していったのですが、サブ6ぐらいの人って、関門の閉鎖時間だけが必要で、1キロごとのラップとか、必要ないんですよ。とにかく、最初の8キロの関門が気になっていたので、『あと、残り何分です』と大きな声で言いながらギリギリの人をフォローして前を追いかけて走るみたいな感じでした」 後半は、歩く人が増え、エイドでは食べ物など、エネルギーになるものがなくなっていた。金さんは自分用に持っていたジェルやタブレットをランナーに渡し、坂道で足がつっている人にコムロケアのゼリーを提供した。ペーサーというよりもナース的な役割を果たしていたのだ。 「最後は、『ちょっと速いよ』とか言われましたが、なんとかゴールできてホッとしました。ゴールすると運営の人が「時間通りにみなさん走り切れてよかったです。ありがとうございます」と喜んでくれて(笑)。マラソンを走って感謝されることってないですけど、感謝の言葉をたくさんいただきましたし、飲みものやつみれ汁を用意してくれるなど、手厚い待遇がうれしかったですね。ただ、やっぱりひとりのペーサーはキツいです。トイレも行けないですし、何かアクシデントがあったら対応できないじゃないですか。いくら遅くても責任は、サブ3もサブ6も変わらないので」 いわきに来た意味 サブ5担当の成相さんは、ペーサーの応募動機について、こう語る。 「今回、応募したのは、公認レースのペーサーにチャレンジしたかったのと、RETOの仲間と地方に行くことに魅力を感じたからです。ペーサーは初でしたが、つくばでなな(野崎七菜子さん)ちゃんと並走して、良い思い出が作れましたし、湘南国際で応援しながら走った時、記録を出すだけがマラソンじゃなくて、応援したり、サポートするのも楽しいなって思ったんです」 成相さんが今、目標とするサブ3.5のペースは4分57秒で、ペーサーの仕事であるサブ5は7分06秒ぐらいだ。レース前、皇居でサブ5のペースで試走すると遅すぎて走れず、スローで行っても6分45秒だった。...

ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...
ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...

サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...
サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...

プロジェクトのペーサー経験が僕を成長させてくれた
RRC member interview text:Shun Sato 第7クールA2チーム(目標:サブ3時間10分)MVP 飯山恵一郎さん リレーマラソンで負傷 昨年12月のBeyondで、3時間09分07秒の自己ベストを出せたのですが、実をいうと「よく出たな」という感じでした。 Beyondの1か月ぐらい前に上尾ハーフで自己ベストに近いタイムを出し、よい気分のままリレーマラソンに向かいました。出場して上位に入れば、東京マラソンの出場権を得られるというので、欲張って出たんです(苦笑)。アップは、もうハーフ走って来たので十分だと思い、いきなりトップスピードで500mぐらい走ったらハムストリングが肉離れを起こして‥‥かなり痛かったですね。その1週間後に、つくばマラソンがあったんですが当然、出走できず、Beyondに目標を切り替えました。幸い軽度だったのでよかったですが、ハーフを走った後、やめておけばいいのに調子に乗って走ったのが自分の不注意というか、ミスジャッジでした。 感じた応援のパワー Beyondは、周回コースなので、1周まわって帰ってくるごとにRETOのみんなの応援でパワーをもらえるので、それが楽しみでした。給水をお願いしていたんですけど、1周するごとに給水してくれる人が変わって、それもすごく励みになりましたし、力になりました。 意識の変化 今回、自己ベストを出せたのは、練習やマラソンに対する姿勢や意識が変わったことが大きかったです。僕は1期生ですが、最初の頃は、走るのは休みの時だけで、仕事の前後に走るとかほとんどしなかったんです。今は、仕事の前後も余裕があれば走るようになりました。 実感した自分の甘さ 走ることに意欲的になったのは、昨年の富津での練習会がキッカケでした。あるプロジェクトを兼ねての練習会だったんですが、雨予報で来れない人が出た中、プロジェクトに関わる人はみんな参加したんです。走り終わった後、練習方法やマラソンに対する考え方とか、話をしていくなかで、自分自身を振り返ると、練習に対する考え方がまだまだ甘いと思えたんです。 仲間からの刺激 特に、絵(片山)さんの話は、刺激になりました。結果を出している人は、距離を走っていますが、絵さんは、「ただ距離を走るのではなく、RETOの公式練習会の翌日に20キロの距離走を入れるといい」と教えてくれたのです。その練習を取り入れていくと明らかに走りが変わりましたし、月間走行距離が200キロから300キロに増えました。ストラバも勧められて始めましたが、みんな走っているのがわかるのでモチベーションが上がりましたね。今は、走らないと気持ち悪くなるというか、走らないと1日がスタートしないみたいな感じになっています(笑)。 プロジェクトで得た経験 あるプロジェクトでペーサーを経験できたことも僕にとっては非常に大きかったです。ペーサーとしてランナーを成功に導くには、単純に平均的に走ればいいというわけではなくて、本命レースまでのスケジュールのプランニングを始め、コースを分析したり、ジェルや給水とか、誰がどのタイミングで渡すとか、いろいろ考えてやらないといけない。それをすべてやったからといって目標を達成できるわけではないところがマラソンの難しさですが、そういうことを自分のレースに当てはめた時、まだ足りていないと思いました。そういう意味ではすごくいい経験になりましたし、勉強になりました。それを今後のマラソンに活かして、目標のサブ3に少しでも近づいていきたいです。
プロジェクトのペーサー経験が僕を成長させてくれた
RRC member interview text:Shun Sato 第7クールA2チーム(目標:サブ3時間10分)MVP 飯山恵一郎さん リレーマラソンで負傷 昨年12月のBeyondで、3時間09分07秒の自己ベストを出せたのですが、実をいうと「よく出たな」という感じでした。 Beyondの1か月ぐらい前に上尾ハーフで自己ベストに近いタイムを出し、よい気分のままリレーマラソンに向かいました。出場して上位に入れば、東京マラソンの出場権を得られるというので、欲張って出たんです(苦笑)。アップは、もうハーフ走って来たので十分だと思い、いきなりトップスピードで500mぐらい走ったらハムストリングが肉離れを起こして‥‥かなり痛かったですね。その1週間後に、つくばマラソンがあったんですが当然、出走できず、Beyondに目標を切り替えました。幸い軽度だったのでよかったですが、ハーフを走った後、やめておけばいいのに調子に乗って走ったのが自分の不注意というか、ミスジャッジでした。 感じた応援のパワー Beyondは、周回コースなので、1周まわって帰ってくるごとにRETOのみんなの応援でパワーをもらえるので、それが楽しみでした。給水をお願いしていたんですけど、1周するごとに給水してくれる人が変わって、それもすごく励みになりましたし、力になりました。 意識の変化 今回、自己ベストを出せたのは、練習やマラソンに対する姿勢や意識が変わったことが大きかったです。僕は1期生ですが、最初の頃は、走るのは休みの時だけで、仕事の前後に走るとかほとんどしなかったんです。今は、仕事の前後も余裕があれば走るようになりました。 実感した自分の甘さ 走ることに意欲的になったのは、昨年の富津での練習会がキッカケでした。あるプロジェクトを兼ねての練習会だったんですが、雨予報で来れない人が出た中、プロジェクトに関わる人はみんな参加したんです。走り終わった後、練習方法やマラソンに対する考え方とか、話をしていくなかで、自分自身を振り返ると、練習に対する考え方がまだまだ甘いと思えたんです。 仲間からの刺激 特に、絵(片山)さんの話は、刺激になりました。結果を出している人は、距離を走っていますが、絵さんは、「ただ距離を走るのではなく、RETOの公式練習会の翌日に20キロの距離走を入れるといい」と教えてくれたのです。その練習を取り入れていくと明らかに走りが変わりましたし、月間走行距離が200キロから300キロに増えました。ストラバも勧められて始めましたが、みんな走っているのがわかるのでモチベーションが上がりましたね。今は、走らないと気持ち悪くなるというか、走らないと1日がスタートしないみたいな感じになっています(笑)。 プロジェクトで得た経験 あるプロジェクトでペーサーを経験できたことも僕にとっては非常に大きかったです。ペーサーとしてランナーを成功に導くには、単純に平均的に走ればいいというわけではなくて、本命レースまでのスケジュールのプランニングを始め、コースを分析したり、ジェルや給水とか、誰がどのタイミングで渡すとか、いろいろ考えてやらないといけない。それをすべてやったからといって目標を達成できるわけではないところがマラソンの難しさですが、そういうことを自分のレースに当てはめた時、まだ足りていないと思いました。そういう意味ではすごくいい経験になりましたし、勉強になりました。それを今後のマラソンに活かして、目標のサブ3に少しでも近づいていきたいです。

Beyondの悔しさを乗り越えて
RRC member interview text:Shun Sato 第7クール A+チーム(目標:サブ2時間50分)MVP 片山絵さん Beyond2022の悔しさ 青島大平洋マラソンでサブ3を達成し、PB(2時間51分34秒)を出せたのは、練習とその取り組み方を変えたのが大きいです。まずサブ3狙いの練習をしてサブ3達成ではなく、サブエガ(2時間50分切りのこと)の練習をしてサブ3を出すという方向性に変えました。練習で重視したのは、距離を踏むことです。当初は距離を踏むのに抵抗感があって、いかにコスパ良く走るかと、甘いことを考えていました。でも、2022年のBeyondで、マラソンは10キロ、20キロを走っただけじゃ強くならないし、走りきれないと思い知らされたんです。 参考にした仲間の練習 参考にしたのは、カラッペ(唐津孝二さん)の練習でした。ゴールドコーストマラソンで結果を出した際の練習を見ると、RETOのポイント練習の翌日にミディアムロング走を入れ、早朝にも関わらずポイント練もこなし、更に週1でロング走を必ず入れていました。そのメニューを取り入れつつも、ミディアムロング走やロング走はペースではなく、心拍数で強度をコントロールするように変えました。ペースは起伏や風、気温などの、環境要因に左右されるので、練習目的に応じた心拍数で走るという練習方法を教えてもらい取り入れました。 積み上げてきたものを失う怖さ 走り終わった後のケアも重視しました。2022年のBeyondが終わった後、怪我をして1か月ぐらい走れなくなったんです。もともと左の腸脛靭帯が痛かったのが右も痛くなって、同時に鵞足炎も併発して違和感が取れるまで半年ぐらいかかりました。その時、積み上げてきたものが崩れていくような感覚になって、すごくイヤだったんです。そういう経験があったのでケアに時間をかけ、今も九十九里合宿の時に中野(ジェームズ修一)さんに教えていただいたストレッチを続けています。 染みついた意識 練習会で声を出しているのは、自分を鼓舞するのもありますが、みんなと一緒にメニューをやり切りたいという気持ちがあるからです。当初は、格好つけてクールにと思っていたけど、自分を解放して、声を出して盛り上げるようになったら、みんなも一緒に盛り上がってくれて、キツい練習メニューも一緒に乗り越えてこられました。声出しは学生時代にアメフト部でもやっていたことだったので、身体に染みついていました(笑)。 RETOの応援文化 RETOで応援文化が生まれてきたのは、昨年のレースシーズンからですかね。レースでメンバーを全力応援するのは好きで楽しくてやっていて、それはもう性格なんです(笑)。みんな、自分の目標達成のために練習をしていて、もちろんそれがメインではあるけど、徐々にメンバーが目標達成することがみんなの喜びになってきて、だから練習もみんなでやり遂げようみたいな空気が出来てきたのを感じました。目標を達成した人もいれば、苦い思いをする人もいる。僕も悔しい思いをしたし、PBも達成できた。自分を含めて、みんな、そういう苦しみや喜びを分かち合えるようになってきて、だからこそ一緒にがんばっていこうと応援したり、練習をしたりするムードがRETOの中に生まれてきたのかなと思います。 人生に欠かせないもの 僕にとってRETOは、今や自分の人生において欠かせないものになっています。この年齢になって、一緒に熱くなって、本気でマラソンに取り組める仲間と巡り合えて、本当に幸せだなと思います。
Beyondの悔しさを乗り越えて
RRC member interview text:Shun Sato 第7クール A+チーム(目標:サブ2時間50分)MVP 片山絵さん Beyond2022の悔しさ 青島大平洋マラソンでサブ3を達成し、PB(2時間51分34秒)を出せたのは、練習とその取り組み方を変えたのが大きいです。まずサブ3狙いの練習をしてサブ3達成ではなく、サブエガ(2時間50分切りのこと)の練習をしてサブ3を出すという方向性に変えました。練習で重視したのは、距離を踏むことです。当初は距離を踏むのに抵抗感があって、いかにコスパ良く走るかと、甘いことを考えていました。でも、2022年のBeyondで、マラソンは10キロ、20キロを走っただけじゃ強くならないし、走りきれないと思い知らされたんです。 参考にした仲間の練習 参考にしたのは、カラッペ(唐津孝二さん)の練習でした。ゴールドコーストマラソンで結果を出した際の練習を見ると、RETOのポイント練習の翌日にミディアムロング走を入れ、早朝にも関わらずポイント練もこなし、更に週1でロング走を必ず入れていました。そのメニューを取り入れつつも、ミディアムロング走やロング走はペースではなく、心拍数で強度をコントロールするように変えました。ペースは起伏や風、気温などの、環境要因に左右されるので、練習目的に応じた心拍数で走るという練習方法を教えてもらい取り入れました。 積み上げてきたものを失う怖さ 走り終わった後のケアも重視しました。2022年のBeyondが終わった後、怪我をして1か月ぐらい走れなくなったんです。もともと左の腸脛靭帯が痛かったのが右も痛くなって、同時に鵞足炎も併発して違和感が取れるまで半年ぐらいかかりました。その時、積み上げてきたものが崩れていくような感覚になって、すごくイヤだったんです。そういう経験があったのでケアに時間をかけ、今も九十九里合宿の時に中野(ジェームズ修一)さんに教えていただいたストレッチを続けています。 染みついた意識 練習会で声を出しているのは、自分を鼓舞するのもありますが、みんなと一緒にメニューをやり切りたいという気持ちがあるからです。当初は、格好つけてクールにと思っていたけど、自分を解放して、声を出して盛り上げるようになったら、みんなも一緒に盛り上がってくれて、キツい練習メニューも一緒に乗り越えてこられました。声出しは学生時代にアメフト部でもやっていたことだったので、身体に染みついていました(笑)。 RETOの応援文化 RETOで応援文化が生まれてきたのは、昨年のレースシーズンからですかね。レースでメンバーを全力応援するのは好きで楽しくてやっていて、それはもう性格なんです(笑)。みんな、自分の目標達成のために練習をしていて、もちろんそれがメインではあるけど、徐々にメンバーが目標達成することがみんなの喜びになってきて、だから練習もみんなでやり遂げようみたいな空気が出来てきたのを感じました。目標を達成した人もいれば、苦い思いをする人もいる。僕も悔しい思いをしたし、PBも達成できた。自分を含めて、みんな、そういう苦しみや喜びを分かち合えるようになってきて、だからこそ一緒にがんばっていこうと応援したり、練習をしたりするムードがRETOの中に生まれてきたのかなと思います。 人生に欠かせないもの 僕にとってRETOは、今や自分の人生において欠かせないものになっています。この年齢になって、一緒に熱くなって、本気でマラソンに取り組める仲間と巡り合えて、本当に幸せだなと思います。

すべてを書き記した練習ノートが支えでした
RRC member interview text:Shun Sato 第7クール B+チーム(目標:3時間19分59秒)MVP 笹辺恵さん RETOの応援に感謝 MVPをいただけたのは、つくばマラソンのPB(3時間25分18秒)ですよね。 4年前につくばで出したタイムを今回つくばで更新したんですけど、久しぶりのレースでもあり、どのくらいの設定でいこうか迷っていたんです。つっちー(土本優作さん)に「4分50秒を切らないぐらいで行った方がいいよ」と言われて、その通り、けっこういい感じで押せていけました。応援もすごくて、給水をしてもらったり、そういう連携プレーみたいなのはこれまで経験したことがなかったので、本当にありがたかったです(笑)。 走力アップの源 この1年で走力が伸びたのは、練習ノートのおかげかなと思っています。これはRETOに入ってからつけ始めました。最初はメニュ―だけ書いていたんですが、聖也さんのメニューでポイント練習した時にキツかったとか、意外とできたとか、感想やその時の感覚を書いていました。私は、一人で練習する時が多いので、メニューをこなす時はノートを見返して、この時いけたから今日もやれるとか、練習前から前向きな気持ちでいくようにしているんです。なぜなら、メニューができなかった時のダメ―ジが大きいからです。 自信をつけるために そもそも私は緊張しーで、メンタルもそれほど強くありません。RETOの練習会の時も聖也さんから事前にメニューは出ていても設定がなかなか出ないと「いったいいくつで走るんだ?!」って気になって、練習前からお腹が痛くなるんです。設定が出て、確認して「これなら絶対いける」って自分の気持ちを高めてから参加していました。レースの時も朝起きてから3回ぐらいトイレに行きます。普段の練習を丁寧にこなし、自信をつけていかないと不安になってしまうんです。それにレースは、最終的にはひとりで走らないといけないですし、自分との勝負になるわけじゃないですか。仕事や家庭の都合などでいろんな練習会に行けないことを逃げの口実にせず、ひとりでもノートを見ながら設定通りにメニューをこなしていかないと一人でマラソンを走り切るだけの自信が身につかないんです。そういうところは、「強い」と聖也さんに言われました。 考えて練習することの重要性 ただ、練習をこなしていても停滞時期があります。そうなると自分で考えて練習をすることが求められます。今、RETOは100人ぐらいのメンバーがいるので、コーチが全員に目をかけるのって難しいですし、何でも聞くのも良くないなって思っています。気が付いたことはノートに書き残し、今日はここがダメだったからこうしないといけないとか、自分でいろいろ考えさせてくれたことも走力がついてきた要因かなと思います。 心拍数をベースに 最近は、ペースだけを意識するのをやめて心拍数を見て、走るようになりました。絵さん(片山絵さん)から「追い込めているかどうか、心拍数で見た方がいいよ」って言われたので、 HRセンサーを購入し、練習の時に心拍数を確認しながら「160のまま走るとチョット落とさないといけない」とか、考えて走っています。 充実した23‐24シーズン RETOに入ってからの今シーズンは、朝から走ったり、夜に「美魔女練」をやらせてもらったり、これ以上ないくらい走ってきました。これで結果が出なかったら本当に死んでいたかもしれない(苦笑)。東京マラソンは、怪我の影響もあって、中途半端な結果になってしまいましたが、つくばでPBを出すことで最低限の結果を出せました。すべて満足とはいかないですが、とりあえずやり切れたのかなと思います。そういう意味ではこの1年は、本当に充実したシーズンでした。
すべてを書き記した練習ノートが支えでした
RRC member interview text:Shun Sato 第7クール B+チーム(目標:3時間19分59秒)MVP 笹辺恵さん RETOの応援に感謝 MVPをいただけたのは、つくばマラソンのPB(3時間25分18秒)ですよね。 4年前につくばで出したタイムを今回つくばで更新したんですけど、久しぶりのレースでもあり、どのくらいの設定でいこうか迷っていたんです。つっちー(土本優作さん)に「4分50秒を切らないぐらいで行った方がいいよ」と言われて、その通り、けっこういい感じで押せていけました。応援もすごくて、給水をしてもらったり、そういう連携プレーみたいなのはこれまで経験したことがなかったので、本当にありがたかったです(笑)。 走力アップの源 この1年で走力が伸びたのは、練習ノートのおかげかなと思っています。これはRETOに入ってからつけ始めました。最初はメニュ―だけ書いていたんですが、聖也さんのメニューでポイント練習した時にキツかったとか、意外とできたとか、感想やその時の感覚を書いていました。私は、一人で練習する時が多いので、メニューをこなす時はノートを見返して、この時いけたから今日もやれるとか、練習前から前向きな気持ちでいくようにしているんです。なぜなら、メニューができなかった時のダメ―ジが大きいからです。 自信をつけるために そもそも私は緊張しーで、メンタルもそれほど強くありません。RETOの練習会の時も聖也さんから事前にメニューは出ていても設定がなかなか出ないと「いったいいくつで走るんだ?!」って気になって、練習前からお腹が痛くなるんです。設定が出て、確認して「これなら絶対いける」って自分の気持ちを高めてから参加していました。レースの時も朝起きてから3回ぐらいトイレに行きます。普段の練習を丁寧にこなし、自信をつけていかないと不安になってしまうんです。それにレースは、最終的にはひとりで走らないといけないですし、自分との勝負になるわけじゃないですか。仕事や家庭の都合などでいろんな練習会に行けないことを逃げの口実にせず、ひとりでもノートを見ながら設定通りにメニューをこなしていかないと一人でマラソンを走り切るだけの自信が身につかないんです。そういうところは、「強い」と聖也さんに言われました。 考えて練習することの重要性 ただ、練習をこなしていても停滞時期があります。そうなると自分で考えて練習をすることが求められます。今、RETOは100人ぐらいのメンバーがいるので、コーチが全員に目をかけるのって難しいですし、何でも聞くのも良くないなって思っています。気が付いたことはノートに書き残し、今日はここがダメだったからこうしないといけないとか、自分でいろいろ考えさせてくれたことも走力がついてきた要因かなと思います。 心拍数をベースに 最近は、ペースだけを意識するのをやめて心拍数を見て、走るようになりました。絵さん(片山絵さん)から「追い込めているかどうか、心拍数で見た方がいいよ」って言われたので、 HRセンサーを購入し、練習の時に心拍数を確認しながら「160のまま走るとチョット落とさないといけない」とか、考えて走っています。 充実した23‐24シーズン RETOに入ってからの今シーズンは、朝から走ったり、夜に「美魔女練」をやらせてもらったり、これ以上ないくらい走ってきました。これで結果が出なかったら本当に死んでいたかもしれない(苦笑)。東京マラソンは、怪我の影響もあって、中途半端な結果になってしまいましたが、つくばでPBを出すことで最低限の結果を出せました。すべて満足とはいかないですが、とりあえずやり切れたのかなと思います。そういう意味ではこの1年は、本当に充実したシーズンでした。