RETOが主宰するRETO RUNNING CLUBでは、第12クール(2025年2月〜2025年4月)のメンバーを募集します。 クラブのコンセプトは「 FASTER BUT MORE #速さの奥へ 」。 RETO RUNNNING CLUBには、他のランニングコミュニティ、あるいは即席のランニングイベントとは一線を画すコミットメントとロイヤリティがあります。それを支えているのは、クラブのメンバーは目標を掲げて走るという譲れない信念とともに、今の自分より「もっと速く走りたい」というランナーに共通した欲です。ただし、 目標に挑戦することは走るための手段であり、挑戦することで得られる豊かさを同時に求めることを最も大切にしています。 目標に向かって走る姿が仲間との強い繋がりをつくると信じているからこそ、コミュニティではなく「クラブ」という言葉にこだわりを持ち、トレーニングやナレッジ、モチベーションの共有を高いレベルで追求しています。ランナーが目標を掲げ、今の自分が到達できるベストに挑み続けることは、人生を豊かにし、そしてまたその姿に励まされるランナーを生むと考えています。 クラブの理念に共感し、メンバーと共に目標に挑戦することで、さらに充実したライフスタイルを送りたい方のご応募をお待ちしています。 【申込フォーム】https://forms.gle/2sdmgpaUCCoMkDin7 【概要】募集クラス:A+:sub2:50/A1:sub3:00/A2:sub3:10/B+:sub3:20/B:sub3:30/C+:sub3:45/C:sub4:00 参加費用:¥27,000(税込)※第12クール期間(2025年2月~2025年4月)分応募期間:2025年2月1日(土)迄 選考結果:応募締切後、コーチによるセレクションを行い、事務局より選考結果を連絡します。(2025年2月3日頃に連絡予定) 【第12クールご案内】★公式練習会2月6日(木)2月17日(月)3月6日(木)3月17日(月)3月31日(月)4月14日(月) ※練習場所は基本的には皇居(二重橋周辺)です。 ★個別練習会2月15日(土)2月20日(木)3月22日(土)3月27日(木)4月12日(土)4月17日(木) ※参加される場合は別途費用(2,000円)がかかります ★イベント4月29日(火・祝) ◎お問い合わせRRC運営事務局 / info@reto-sports.jp
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール Cチーム(目標:フルマラソンsub4時間00分)MVP YURIさん コロナ禍でのスタート 私が走り始めたのは、コロナ禍で在宅勤務になったのがキッカケです。 運動不足を感じていたのでジムに行くようになり、最初は筋トレをしていたんですけど、トレーナーさんに「ジムに来ない時は有酸素運動をした方がいいよ」といわれて、ランニングを始めました。 ホノルルマラソンの衝撃 最初は、5キロを30-40分ぐらいかけて走っていたのですが、徐々に楽しくなって、それをトレーナーさんに伝えたら「マラソンに出てみたら」と言われて。その時、初フルはホノルルと決めました。制限時間がないですし、しかも大好きなハワイだったからです。ただ、その年はコロナ禍の余波で行けなくて、翌22年にホノルルマラソンを走りました。スタート地点でアメリカ国歌を黒人女性が赤ペラで歌ってすごく盛り上がって鳥肌が立ちました。海外のあのテンションのレースを経験したので、それから海外レースにまた行きたいと思うようになりました。運よく当選し、その3か月後に東京マラソンを走る事ができ、ワールドマラソンメジャーズの存在を知り、いつか6大メジャーを制覇したいと思うようになりました。ベルリン、ロンドン、ニューヨークには出たので、あとはシカゴとボストンを走り、ワールドマラソンメジャーズの6大会を走破するのが今の目標です。 ベルリンで壁を越える ベルリンはレース当日、15度ぐらいでとても良いコンディションでしたが、夏の間の練習の内容から、とてもサブ4を狙える状況ではなく、ファンランで行こうと思いスタートしました。ハーフで2時間越えていたので、サブ4ができるなんて思っていなかったんです。それから徐々にペースが上がって、今まで感じたことがないくらい楽しく走れたんです。残り5キロになり、「サブ4行けるんじゃない?」と気が付いてからは逆に怖くなりました。もう心臓バクバクで辛い練習を思い出しながらラストスパートし、ギリギリサブ4を達成することができました。 憂鬱だった練習会 RETOに入ったのは、昨年のベルリンの後の11月です。インスタで、みなさんがPBを更新するのを見て入りたいと思い、私はサブ4を達成する目標があったので応募しました。最初は、すごいところに来ちゃったなと思いましたね。練習のメニューが出ると今まで経験した練習会のサブ4レベルのメニューと比べると明らかに速い設定で「私には絶対に無理」と思い、毎回行くのが憂鬱になりました。練習もコンプリート出来るわけがなく、一時は心が折れて辞めたいと思い、聖也さんとタムケンさんにどうしたら良いか相談したこともありました。 身に染みて感じたこと 私は、公式練習会も仕事の都合などで毎回参加できるわけでもなく、公式練習会以外の練習や飲み会もほとんど参加したことがありません。こんな私がMVPを頂いてよいのか、正直驚いています。そんな私でも、練習会に行くと神野さんはじめ、みなさんが気にかけて声をかけてくれたり、聖也さんがメニューのアレンジをしてくださったり、何よりキツいメニューをやり切った後の達成感は格別で、頑張って練習に来て良かったと毎回思いますし、みなさんの優しさに触れ、心折れながらもRETOを続けてきて本当に良かったと思います。サブ4を達成できたのはRETOのみなさんときつい練習のおかげだと身に染みて感じました。 マイペースで走りつづける ―なぜ、走るのですか。 走るのが好きだからです。それに走った後の達成感ですね。どんなに遅くなってもゴールしたら「やった。次も頑張ろう」って感覚になれるので。それに走っているとポジティブな思考になるんです。音楽を聞きながらジョグしていると自分の世界に入って、アイデアがたくさん出て来て、仕事をがんばろうって思えるんです。生活のあらゆる面を豊かにしてくれるので、これからも自分のペースで走っていきたいと思います。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール A+チーム(目標:フルマラソンsub2時間50分)MVP 渡部健太さん PB狙いの道マラ 北海道マラソンは地元のレースなので自己ベスト更新しか狙っていませんでした。準備は3月の東京マラソンが終わった後すぐにスタートしました。6月に飛騨高山ウルトラマラソンを控えていたのでモチベーションが下がることはなかったです。 レースの1〜2カ月前は、長い距離を無理のない範囲で3時間ぐらいかけて何キロ走ったのかで自分のコンディションを測って、そこから調子を上げていくという練習の組み方をしています。 練習は質にこだわる 月間の走行距離は4月から6月までは220キロから250キロぐらいで、サブエガを目指して走っている人よりは少なかったと思います。仕事が忙しい時期は思うように走れないので、質にこだわることを意識しています。ほかには旅行先で走るようになりました。知らない街を走るのが好きで気分転換にもなります。 7月下旬の公式練習会前夜、とあるメンバーから夜通しで山手線一周を走ろうと誘われてノリで走ったんです。その日はキロ5分から5分半ぐらいで走りましたが、山手線外周は1周すると40キロぐらいでマラソンの練習にはもってこいのよく出来たコースです。深夜1時にスタートして朝6時に終わって、そのまま仕事に行き夜に公式練習会の1500mTTに出たのですが最後に激タレしたことは忘れません。 長時間、長い距離を走る その週末には富士登山競走(五合目コース)というレースに出ました。道マラまで1ヶ月ちょっとしかなく、ずっと上り坂で足に負担がかかるので怪我したらまずいなと心配していたのですが、問題なく走り切ることができました。 暑さ対策としては、7月以降は朝7時前に走り始めても30度近くあったので、そこで徐々に体を慣らしていきました。道マラはこれよりは涼しいはずだから今頑張れば必ず本番で良い走りができると自分に言い聞かせていました。 道マラへのこだわり 「なぜそこまで道マラにこだわるの?」とよく聞かれますが、それはストレートに北海道が“ホーム”だからです。北海道のランナーは冬の間、雪が積もるので室内か滑る雪道で恐る恐る走り、4月になってようやく普通に走れるようになります。北海道は4〜5月からレースが入ってきて8月末の道マラで勝負するという文化なので、冬に勝負する本州とは真逆になります。初めて道マラに出た大学2年の時から春からトレーニングをして夏の大一番に臨むという流れが身体に染みついていて今でも抜けません。 チームサポの後押し あとは基本的には応援している某サッカーチームのユニフォームを着用してレースに出ていますが、道マラに関してはそれによって受ける沿道からの声援が他のレースとは段違いです。その後押しを背に受けて結果的に自己ベスト(2時間48分05秒)を更新できて最高にうれしかったです。 結果で証明 周りからは暑くて自己ベストを出すのは厳しいと思われていただろうなとは感じていました。でもそこはもう結果を出して黙らせてやるくらいの思いでやってきました。これまで自己ベストを5回出しているうちの4回が道マラになります。確かに別府大分や大阪・東京の方が涼しいしタイムが出やすいと言われますけど、僕にとっての勝負レースは歳を重ねても道マラです。 道外から参戦するランナーにとって、道マラはシーズンに向けた距離走という位置づけで出場して、観光も兼ねて楽しむという方がとても多いことを改めて実感しました。 目標の重要性 ―なぜ、走るのですか。 中学生でサッカーをやめてから太り始めてその時の姿にはもう戻りたくないというのと、目標を失った人ほど弱いものはないと思っていて、その目標を持つためでもあります。道マラが終わって9月10月はなぜ走っているんだろうって思うことが多かったですが、次のレースである別大が近くなってようやくスイッチが入りました。目標を持って走ると楽しいし、生きるモチベーションになる。走ることは僕にとっての生命維持装置みたいなものです。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール B+チーム(目標:フルマラソンsub3時間15分)MVP 親松健太さん 10か月、3回のマラソンで70分のタイム短縮 水戸黄門漫遊マラソンで3時間15分40秒を出し、今年3月の東京マラソン(3時間58分11秒)から43分タイムを縮めることができました。昨年12月の湘南国際マラソンが初フルで4時間25分だったのですが、3回目のフルマラソンでこれだけタイムを縮められたことに自分でも驚いています。今回の水戸ではMin目標をサブ3.5、Max目標をサブ3.15で設定し、結果としてMax目標に近い形でゴールできて、RETOのメンバーからも「大幅PBおめでとう!」と沢山声をかけていただき、すごく嬉しかったです。レース中に声を掛け合って並走した同期の菜々子(飯塚)や現地まで応援・サポートに駆けつけてくれたRETO応援隊には本当にパワーをもらえましたし、そのおかげで自分の実力以上の走りができたと感謝しています。 自分を変えたい欲求 RETOに入って9ヶ月が経ちますが、「環境が人を変える」ということを強く感じています。というのも、以前までの自分はランニングもジムも始めては辞めの繰り返しで、なかなかモチベーションが保てず、継続してトレーニングを行うことが出来ずにいました。そんな意志の弱い自分を変えたいという思いもあり、「RETO RUNNING CLUB」の募集をインターネットで偶然見つけ、思い切って応募しました。 身についたランニングの習慣 RETOでは、メンバーそれぞれが自分の目標を持っていて、それを達成するためにチームでサポートしながら共に高め合う雰囲気があるので、自ずと頑張ろうという気持ちになれます。隔週の公式練習会以外にもメンバー企画の定期的な朝練や週末練習会が多くあるおかげで、自然とランニングする習慣が身に付きましたし、コーチ陣やメンバーから都度アドバイスをもらえ、ランニングの知識もだいぶついてきました。 また、普段の練習記録をストラバというランニングアプリで管理、シェアしているのですが、仲間の練習内容を見てモチベーションに役立てています。自分があまり走れていないときは変に焦ってしまうので、その時は敢えて見ないようにするなどして都合よく使っています(笑) 水戸への流れ RETOに入ってからランニングに対する意識が変わって、行動が変わったのは間違いないです。これまで月間100km走れば満足していた自分が、気付けば月間250〜300kmを継続して走るようになり、すっかりランニングが生活の一部になりました。走行距離が増えることでケガのリスクも高まるので、少しでも足に違和感が出たときは練習量を落としたり、思い切って休むなどしてケガをしないように調整してきました。6〜8月は暑くてスピードも出なかったので走行距離に重きを置き、9月に入ってからジョグのペースを上げたり、ジョグの後にウィンドスプリントを入れたりと練習の質も意識して取り組みました。水戸のちょうど1週間前に東京レガシーハーフに出走したのですが、そこで今年6月に出したハーフタイムのPBを7分更新することができ、これまでの練習に手応えを感じることが出来ました。レガシーで良い流れを作って、水戸にそのまま臨めたことが良かったように思います。 目標に挑戦し、達成感を得る ―なぜ、走るのですか。 健康維持や体形維持のためという点は以前と変わりませんが、RETOに入ってからは自分で決めた目標にチャレンジして達成感を得るためという理由がそこに加わりました。正直、大人になってからここまで夢中になれること、成長を感じられることが見つかるとは思っていませんでしたし、これまでより明らかにライフが充実しているように感じます。ちょっとした悩み事も走ったらそのモヤモヤが晴れてスッキリしたなんてことは結構ありますし、走った分ごはんもお酒も美味しいし、日々の生活に良いことしかありません。最近では、小1の娘が急に「今度パパと走りたい!」と言ってくれ、年末に親子マラソンに出ることになりました。自分の趣味に娘が興味を持ってくれたことは嬉しいことですし、これを機に娘が少しでも走ることを好きになるようにサポートしていきたいと思います。今後も自分のマラソンの目標はしっかりと追いかけつつ、仲間の目標の応援やトレイルへの挑戦など活動範囲を広げてランニングライフをもっと楽しみたいと思います。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール Bチーム(目標:フルマラソンsub 3時間30分)MVP 木村太さん 清々しい気持ちで終えた横浜マラソン 横浜マラソンで、サブ3.5(3時間23分20秒)を達成しましたが、ここまでタイムが出るとは正直、思っていなかったです。それまでの自己ベストは昨年の京都マラソンのタイム(3時間48分05秒)で、今年の大阪マラソンは撃沈(3時間57分53秒)したので、横浜ではなんとか30分を切れたらいいなと思っていました。 横浜は、高速道路のバンクが厳しいとか、タイムを出すのが難しいとか、いろいろ言われていたのですが、実際、走ってみると想像以上にキツかったです。高速道路には応援がいないですし、車で走っている時とは全然違う表情で、本当に自分との戦いでした。そこで我慢できたのは、RETOの厳しい練習を乗り越えてきたというのを思い出しながら走ることができたからです。ハーフで余力があったので、サブ3.5のペーサーを抜いた時ぐらいから30分切れるかなと思いました。ゴールした時、「こんなタイムで走ってたの?」とビックリしましたし、いつもはレース後、足が攣ってぶっ倒れているんですけど、その時はそういうこともなく、清々しい気持ちで終えることができました。 お互いを高め合う刺激 大阪から横浜までの期間での取り組みで一番プラスになったのは、やはりRETOに入ったことです。僕は9期(2024年5月~7月)から入ったのですが、初めてRETOの練習会に出た時、みんながぶっ倒れるまで走る姿を見て、「みんなすごいし、場違いなところに来ちゃったな」と思いました。でも、Bチームでみなさんの背中を見て走っていると、すごく頑張っているのが伝わってきましたし、チーム全体がそれぞれの目標に向かって自分を追い込みながらお互いを高め合っているのを見て、自分も頑張ってみようと思いました。本当に、RETOではみなさんからすごくエネルギーをもらっています。 ランで健康体に 練習はRETOをベースに、あとはストラバでみんなが走っているのを見て、刺激を受け、可能な限り走るようにしていました。月間の走行距離は、180キロぐらいでした。それまで100キロぐらいしか走っていなかったので、自分のなかでは大きな変化です。走るのは基本的に土日で、平日は仕事で帰ってきた後、お風呂を沸かしている間に少しでも走るという感じで、距離を積み重ねていきました。走っていく中で体重が減り、体調がすごく良くなりましたし、健康診断の検査値も良くなり、良いことしかないですね。 自分の人生が変わった 僕は、もともとマラソンとか長い距離を走るのが好きではなかったんです。ずっと野球をしていて、走り始めたのは社会人になり、会社の先輩に誘われたのがキッカケでした。もう7年ぐらい前ですが、初めて走ったのが湘南国際マラソンです。それからも一人で走り続けて、年に1、2回ペースでマラソンに出ていました。数年前に東京に転勤になり、単発で練習会に出ていたのですが、お酒を飲んでいる時にFacebookでRETOの募集を見て、勢いで応募しました。運良く入ることができて良かったですし、マラソンとの向き合い方はもちろん、自分の人生が変わりましたね。 マラソンが自分の成長を引き出す ―なぜ、走るのですか。 今までは、マラソンを走ってゴールし、その達成感を感じ続けたいと思って走っていたのですが、最近ちょっと考えが変わってきました。正直、この年齢でここまでタイムが伸びるとは考えていませんでした。でも、実際にすごく伸びてきている現実を見ると、自分が気が付いていないだけで、まだまだ成長できる部分があるのかなと思いました。それを引き出してくれるのがマラソンなのかなと思います。これは自分の生き方とか仕事に通じる部分でもあると思っているので、これからも走って自分の潜在能力をどんどん引き出して成長して行けたらと思っています。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール A2チーム(目標:フルマラソンsub3時間10分)MVP 飯塚菜々子さん 7年ぶりにラン再開 初フルのホノルル(昨年12月)から水戸漫遊マラソンまで、1年かからずに40分近くタイムを縮めることができたのは、自分でもちょっとびっくりしました。 私は中高で、陸上をしていました。ただ、中学の時は、陸上部がなく、寄せ集めで駅伝を走っていて、高校は陸上部に入って中長距離を専門に走っていました。卒業後は、気が向いた時にジョグするぐらいで、走り始めたのは、昨年6月からです。麻美(松下)さんと職場が一緒で、結婚式に出るためにダイエットするから走ることになり、ベジタブルマラソンの10キロに出ました。約7年間、まともに走っていなかったのですが、「意外と走れるじゃん」と思って楽しくなり、それから麻美さんと二人で走るようになりました。 初フルのホノルルでサブ4達成 その後、フルマラソンを走りたくなり、ひとりでホノルルに行って、サブ4を達成することができました。周囲の人から「狙う大会じゃないし、もったいないよ」と言われたのですが、ホノルルでサブ4をしたいなって思ったんです。次のレースでは絶対にサブ3.5をしたいと思い、ポイント練習ができるような練習会に行くようになりました。ここでランニングのスイッチが入りましたね。今年2月、大阪マラソンでサブ3.5(3時間23分30秒)を達成し、水戸漫遊で15分(3時間13分41秒)を切ることができました。 ケガ予防を重視 水戸で自己ベストを更新できたのは、3月に病練勤務を辞めて9月からまた働き始めたのですが、その間走る時間が増えたのが大きかったです。月間走行距離でいうと270キロから300キロぐらい走っていました。その際、気を付けていたのは怪我を絶対にしたくないので無理をしないこと。疲れとか違和感がある時は休んだり、距離を落としたりしていました。あと、ご飯をたくさん食べるようにしています。体重を減らした時は体調があまり良くなくて、食べた方が体が元気で、風邪を引いたり、大きな怪我もしていません。 大阪国際がモチベーション RETOは2月の8期からです。私が今、走っているのは、RETOの仲間から刺激を受けているのが大きいです。やまあす(山本明日香)、智世(竹輪)さんとは一緒に練習する機会が多く、大阪国際を目指して一緒に頑張っていますし、練習メニューが辛くて、みんなで声を掛け合ってできた時の達成感とか、めちゃ最高だなと思いますね。 6月の合宿の時に聖也さんに「大阪国際、狙えるんじゃない」と言われて、大阪国際を意識し始めました。今年、大阪マラソンを走った時、大阪国際に行けるようなレベルで走れるとは思わなかったですが、今は出るという気持ちが強いです。茉美(新里)ちゃんとかと「みんなで大阪国際、がんばろう」と刺激し合っていますが、たぶん一人で走っていたら大阪国際を狙おうとは思わなかったでしょう。 生活の軸にあるもの 今は、頭の中は80%以上、マラソンが占めていて、ランニング中心の生活になっています。転職を考えた時も週末にレースがあるし、個人の練習会もあるので土日は休みがいいし、夜勤すると体調が崩れるので夜勤がないところを探していました。職場の人には、「今日も走って来たの?」、「今から走りにいくの」ってドン引きされていますけど、やっぱり走るのは楽しいですね。 人生を充実させてくれるランニング ―なぜ、走るのですか。 生活の充実度を高めるためです。あと、私の仕事の訪問看護は一人で利用者さんのところに行くのですごく責任が重たいですし、残業もあるのでストレス発散のために走ることもあります。走った後は、ご飯もお酒もおいしい。人生そのものを充実させるために走っています。
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 後篇 Text:Shun Sato ELDORESOの誕生前夜、前述のアウトドアショップのオーナーが新たにランニングショップをオープンする記念にと、別注品を依頼され、最初に作ったのが綿麻のキャップだった。 ただ、阿久澤隆さんは、スポーツの商品を作るのには、抵抗があった。 「スポーツものって、素材とか性能も含めて素人が手を出しちゃダメでしょと思っていたんです。そうしたら『なんでもいいよ』と言われたので、スポーツにまったく適さない綿麻の生地でキャップを作ったんです。洗うと色落ちしていくんですけど、それがびっくりするくらい反響があって、メルカリに出るとすぐに何倍もの価格で売れている状態になったんです。それまで商品を作って来て、著名人が身に着けたわけでもないのに、こんなことになるのは1度もなかった。『あれ、これいいんじゃない?』と思い、そこから品数を増やしていきました」 ELDORESOのスタート 再び走り出してから3年の歳月をかけ2016年、ELDORESOの商品販売をスタートした。 それまでデザイン的にシンプルで、カラーバリエーションが少なかったランニングウエアに革命を起こし、ELDORESOは機能性に加え、独特の尖ったデザインとカラーでランナーに支持されるようになった。ラン二ング文化と古き良きアメリカのカルチャーの混血から生まれたような商品で、コンセプトがしっかりと練られている感じがするが、阿久澤さんは、「いやいや」と苦笑して、こう語る。 「ものつくりのコンセプトって特にないんです。展示会があるので、期間内にサンプルを出さないといけない。その締め切りに追われてバァーと考えて作る感じです。1年先、2年先を読むとかもしないですね。たぶん3年後も同じようなものを作っていると思います。でも、それが『あいつっぽいよね』となって、トータルで見るとひとつのコンセプトになっていると思います」 デザインは、どのように考えているのだろうか。 「デザインは、何かをモチーフにしたり、何かにインスパイアされてっていうのはないですね。締め切り間近に突然、デザインが頭に降りてくることもないです(笑)。ただ、古着が好きなので、昔から見ていたものが活かされているところはあるかもしれない。僕が大事にしているのは、最初にこうだって思ったものからブレないこと。ひねっていくと、自分じゃないアイデアとかが入って来て、世の中にある同じようなものになってしまう。だから、4人でやっていた頃の経験がすごく生きています。大事なのは、人に流されないで、自分が好きなものだけを作るということです」 自分への挑戦状 ELDORESOの人気が上がっていくと、阿久澤さんのランニングに対する向き合い方に変化が生じた。マラソンを走るようになり、「ELDORESOの阿久澤」として、多くの人に知られるようになった。すると「ELDORESOを作っているヤツより、俺の方が速かった」という声が耳に入ってくるようになった。 「そこは聞き流せなかったですね(笑)。最初の頃はマラソンのタイムが4時間50分ぐらいだったんですけど、飲み会で『元陸上部なのに遅いね』って言われて、ちょっとバカにされるキャラみたいになってきたんです。自分がみんなと比較されるようになり、『ちきしょう、負けたくない。だったら速くなろう』と思ったので走るようになりました」 マラソンのおもしろさ マラソンは自分の力がタイムに正確に出る。元陸上部としては、タイムにはこだわりがあった。そのため、マラソンを主戦場にし、コツコツと努力を重ねた。今年2月の別府大分毎日マラソンで、3時間03分20秒を出し、目標のサブ3が見えてきた。 「目標はサブ3って言い出して、もう何年も経っているんですが、ちょっとずつ近づいてきています。ただ、ここ最近は、20秒ぐらいずつしか更新できなくて、『これ、サブ3まで何年かかるんだよ』って思うんですが、だから楽しいんです(笑)。そう簡単にいかないところにマラソンのおもしろさがあると思います」 チーム活動の愉しさ マラソンを含めランニングの活動は、より活発化している。 2021年、ランニングクラブ「LOUD RUNNERS(ラウドランナーズ)」を立ち上げ、チームユニフォームを作り、練習会に参加している。レースや練習で走る仲間を応援し、大学の後輩であり、社員でもある山口純平選手がマラソンや100キロのレースに出る際には現地でサポートしている。 「メンバーがタイムを出すのはうれしいですし、応援したりするのはめちゃくちゃ楽しいですね。純平もそうですが、やはり身近な人を応援するっていうのは同じ応援でも中身がぜんぜん違う。気持ちが入りますから」 パリ五輪での経験...
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 前編 Text:Shun Sato 「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」 そんな声がランナーから聞こえてくる。 高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。 陸上の強豪校へ 「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」 阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。 「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」 名門陸上部での試練 桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。 「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」 大学3年でのドロップアウト 憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。 「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」 トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。 大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。 「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」 寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。 閉ざされた正社員への道 大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。 「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」 阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。...