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サブ3とELDORESO世界進出への挑戦
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 後篇 Text:Shun Sato ELDORESOの誕生前夜、前述のアウトドアショップのオーナーが新たにランニングショップをオープンする記念にと、別注品を依頼され、最初に作ったのが綿麻のキャップだった。 ただ、阿久澤隆さんは、スポーツの商品を作るのには、抵抗があった。 「スポーツものって、素材とか性能も含めて素人が手を出しちゃダメでしょと思っていたんです。そうしたら『なんでもいいよ』と言われたので、スポーツにまったく適さない綿麻の生地でキャップを作ったんです。洗うと色落ちしていくんですけど、それがびっくりするくらい反響があって、メルカリに出るとすぐに何倍もの価格で売れている状態になったんです。それまで商品を作って来て、著名人が身に着けたわけでもないのに、こんなことになるのは1度もなかった。『あれ、これいいんじゃない?』と思い、そこから品数を増やしていきました」 ELDORESOのスタート 再び走り出してから3年の歳月をかけ2016年、ELDORESOの商品販売をスタートした。 それまでデザイン的にシンプルで、カラーバリエーションが少なかったランニングウエアに革命を起こし、ELDORESOは機能性に加え、独特の尖ったデザインとカラーでランナーに支持されるようになった。ラン二ング文化と古き良きアメリカのカルチャーの混血から生まれたような商品で、コンセプトがしっかりと練られている感じがするが、阿久澤さんは、「いやいや」と苦笑して、こう語る。 「ものつくりのコンセプトって特にないんです。展示会があるので、期間内にサンプルを出さないといけない。その締め切りに追われてバァーと考えて作る感じです。1年先、2年先を読むとかもしないですね。たぶん3年後も同じようなものを作っていると思います。でも、それが『あいつっぽいよね』となって、トータルで見るとひとつのコンセプトになっていると思います」 デザインは、どのように考えているのだろうか。 「デザインは、何かをモチーフにしたり、何かにインスパイアされてっていうのはないですね。締め切り間近に突然、デザインが頭に降りてくることもないです(笑)。ただ、古着が好きなので、昔から見ていたものが活かされているところはあるかもしれない。僕が大事にしているのは、最初にこうだって思ったものからブレないこと。ひねっていくと、自分じゃないアイデアとかが入って来て、世の中にある同じようなものになってしまう。だから、4人でやっていた頃の経験がすごく生きています。大事なのは、人に流されないで、自分が好きなものだけを作るということです」 自分への挑戦状 ELDORESOの人気が上がっていくと、阿久澤さんのランニングに対する向き合い方に変化が生じた。マラソンを走るようになり、「ELDORESOの阿久澤」として、多くの人に知られるようになった。すると「ELDORESOを作っているヤツより、俺の方が速かった」という声が耳に入ってくるようになった。 「そこは聞き流せなかったですね(笑)。最初の頃はマラソンのタイムが4時間50分ぐらいだったんですけど、飲み会で『元陸上部なのに遅いね』って言われて、ちょっとバカにされるキャラみたいになってきたんです。自分がみんなと比較されるようになり、『ちきしょう、負けたくない。だったら速くなろう』と思ったので走るようになりました」 マラソンのおもしろさ マラソンは自分の力がタイムに正確に出る。元陸上部としては、タイムにはこだわりがあった。そのため、マラソンを主戦場にし、コツコツと努力を重ねた。今年2月の別府大分毎日マラソンで、3時間03分20秒を出し、目標のサブ3が見えてきた。 「目標はサブ3って言い出して、もう何年も経っているんですが、ちょっとずつ近づいてきています。ただ、ここ最近は、20秒ぐらいずつしか更新できなくて、『これ、サブ3まで何年かかるんだよ』って思うんですが、だから楽しいんです(笑)。そう簡単にいかないところにマラソンのおもしろさがあると思います」 チーム活動の愉しさ マラソンを含めランニングの活動は、より活発化している。 2021年、ランニングクラブ「LOUD RUNNERS(ラウドランナーズ)」を立ち上げ、チームユニフォームを作り、練習会に参加している。レースや練習で走る仲間を応援し、大学の後輩であり、社員でもある山口純平選手がマラソンや100キロのレースに出る際には現地でサポートしている。 「メンバーがタイムを出すのはうれしいですし、応援したりするのはめちゃくちゃ楽しいですね。純平もそうですが、やはり身近な人を応援するっていうのは同じ応援でも中身がぜんぜん違う。気持ちが入りますから」 パリ五輪での経験...
サブ3とELDORESO世界進出への挑戦
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 後篇 Text:Shun Sato ELDORESOの誕生前夜、前述のアウトドアショップのオーナーが新たにランニングショップをオープンする記念にと、別注品を依頼され、最初に作ったのが綿麻のキャップだった。 ただ、阿久澤隆さんは、スポーツの商品を作るのには、抵抗があった。 「スポーツものって、素材とか性能も含めて素人が手を出しちゃダメでしょと思っていたんです。そうしたら『なんでもいいよ』と言われたので、スポーツにまったく適さない綿麻の生地でキャップを作ったんです。洗うと色落ちしていくんですけど、それがびっくりするくらい反響があって、メルカリに出るとすぐに何倍もの価格で売れている状態になったんです。それまで商品を作って来て、著名人が身に着けたわけでもないのに、こんなことになるのは1度もなかった。『あれ、これいいんじゃない?』と思い、そこから品数を増やしていきました」 ELDORESOのスタート 再び走り出してから3年の歳月をかけ2016年、ELDORESOの商品販売をスタートした。 それまでデザイン的にシンプルで、カラーバリエーションが少なかったランニングウエアに革命を起こし、ELDORESOは機能性に加え、独特の尖ったデザインとカラーでランナーに支持されるようになった。ラン二ング文化と古き良きアメリカのカルチャーの混血から生まれたような商品で、コンセプトがしっかりと練られている感じがするが、阿久澤さんは、「いやいや」と苦笑して、こう語る。 「ものつくりのコンセプトって特にないんです。展示会があるので、期間内にサンプルを出さないといけない。その締め切りに追われてバァーと考えて作る感じです。1年先、2年先を読むとかもしないですね。たぶん3年後も同じようなものを作っていると思います。でも、それが『あいつっぽいよね』となって、トータルで見るとひとつのコンセプトになっていると思います」 デザインは、どのように考えているのだろうか。 「デザインは、何かをモチーフにしたり、何かにインスパイアされてっていうのはないですね。締め切り間近に突然、デザインが頭に降りてくることもないです(笑)。ただ、古着が好きなので、昔から見ていたものが活かされているところはあるかもしれない。僕が大事にしているのは、最初にこうだって思ったものからブレないこと。ひねっていくと、自分じゃないアイデアとかが入って来て、世の中にある同じようなものになってしまう。だから、4人でやっていた頃の経験がすごく生きています。大事なのは、人に流されないで、自分が好きなものだけを作るということです」 自分への挑戦状 ELDORESOの人気が上がっていくと、阿久澤さんのランニングに対する向き合い方に変化が生じた。マラソンを走るようになり、「ELDORESOの阿久澤」として、多くの人に知られるようになった。すると「ELDORESOを作っているヤツより、俺の方が速かった」という声が耳に入ってくるようになった。 「そこは聞き流せなかったですね(笑)。最初の頃はマラソンのタイムが4時間50分ぐらいだったんですけど、飲み会で『元陸上部なのに遅いね』って言われて、ちょっとバカにされるキャラみたいになってきたんです。自分がみんなと比較されるようになり、『ちきしょう、負けたくない。だったら速くなろう』と思ったので走るようになりました」 マラソンのおもしろさ マラソンは自分の力がタイムに正確に出る。元陸上部としては、タイムにはこだわりがあった。そのため、マラソンを主戦場にし、コツコツと努力を重ねた。今年2月の別府大分毎日マラソンで、3時間03分20秒を出し、目標のサブ3が見えてきた。 「目標はサブ3って言い出して、もう何年も経っているんですが、ちょっとずつ近づいてきています。ただ、ここ最近は、20秒ぐらいずつしか更新できなくて、『これ、サブ3まで何年かかるんだよ』って思うんですが、だから楽しいんです(笑)。そう簡単にいかないところにマラソンのおもしろさがあると思います」 チーム活動の愉しさ マラソンを含めランニングの活動は、より活発化している。 2021年、ランニングクラブ「LOUD RUNNERS(ラウドランナーズ)」を立ち上げ、チームユニフォームを作り、練習会に参加している。レースや練習で走る仲間を応援し、大学の後輩であり、社員でもある山口純平選手がマラソンや100キロのレースに出る際には現地でサポートしている。 「メンバーがタイムを出すのはうれしいですし、応援したりするのはめちゃくちゃ楽しいですね。純平もそうですが、やはり身近な人を応援するっていうのは同じ応援でも中身がぜんぜん違う。気持ちが入りますから」 パリ五輪での経験...

ドロップアウトからの成り上がり
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 前編 Text:Shun Sato 「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」 そんな声がランナーから聞こえてくる。 高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。 陸上の強豪校へ 「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」 阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。 「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」 名門陸上部での試練 桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。 「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」 大学3年でのドロップアウト 憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。 「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」 トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。 大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。 「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」 寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。 閉ざされた正社員への道 大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。 「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」 阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。...
ドロップアウトからの成り上がり
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 前編 Text:Shun Sato 「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」 そんな声がランナーから聞こえてくる。 高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。 陸上の強豪校へ 「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」 阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。 「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」 名門陸上部での試練 桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。 「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」 大学3年でのドロップアウト 憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。 「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」 トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。 大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。 「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」 寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。 閉ざされた正社員への道 大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。 「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」 阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。...

応援ランナーがわたしの生きがい
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 後編 Text:Shun Sato パンを食べて走っても強くなる 芦野さやかさんは、2022年10月から皇居近くのRe.Ra.KuPRO永田町RUNNING&CAFEというランニングステーションを軸に活動している。 人と人、人とモノ、人と場所が繋がれる、コミュニティの場を作れるような活動を恒常的にしていきたいという想いから、出会ったのがこのランステだ。 「店長さんを紹介していただいて、ここなら会社から近く、カフェスペースもあり、走った後に交流ができる。私がやりたいコミュニティとか、みんなが楽しめる場とか、人とのつながりを持てる場になると思ったんです。コロナ禍以降利用者さんが減ったという平日の朝、ランステや皇居ランが盛り上がる様にと始めさせてもらったのですが、最初は誰も来なかったどうしようと不安もありました」 ここを拠点にパンランや70キロ走など、いろんなイベントを開催しており、インスタからは楽しさが伝わってくる。とりわけ、8年前に個人で始め、2019年に本格的にスタートしたパンランは、人気のイベントだ。 「パンランは、私は内臓が弱くてマラソン後に食事が採れないし、ウルトラでも70キロ以降、何も食べられなかったので、食べて走る練習として始めました。パン屋さんは夜な夜なパンスタグラマーさんの投稿やネットで趣味も兼ねてチェックしています。 私が参加者様全員とコミュニケーションを取りたいのと、みなさまに楽しんでいただきたくて、定員は大体16名前後。2人ペアにして街中を走り、みなさまが満遍なくコミュニケーションを取れるように列を適時入れ替えます。週末イベントは都度コースを変えていて、5〜6キロから70キロまであり、42キロパンランの時は終わった後、ログが食パンの形になるように考えました。『パン食べて走っても強くなるよ』って多くの人に実感してほしいですね(笑)」 ランの楽しさを伝導する パンランに関しては、さやかさんが先駆者になるが、最近はパンランを始めラン+食のイベントが増えている。楽しく走れると評価が高いから増えているわけだが、さやかさんは気にしていない。 「私が始めたとかではなく、パンランが盛り上がったり、パンとランを重ねることで走ることを楽しんでもらえるなら、どんどん増えていってほしいです。パンランが私の子どもだとして、それをみんなで育ててくれる感覚で、むしろうれしいです!」 だが、ビジネス的にどうなのだろうか。競合が増えると、参加する人が減ったり、回数を増やすことが難しくなることもある。 「私は、お客さんを取るという考え方が好きじゃないんです。競合=いいものにしようとお互い努力して、様々なイベントが魅力あるものになれば、参加する方も増えて、走ることに興味を持つ方が増えて…。そうしてランニング業界がもっと盛り上がると嬉しいです」 さやかさんが主催しているのは、ランニングイベントが多い。ランニングチームやランニングクラブが行なうような練習会は少ない。 「練習会は、私が陸上のコーチではないですし、指導することはできないのでメインにはならないです。私のやりたいことはそこではなくて、ランニングの楽しさを伝えたり、繋がりを作ったり、みなさまの走りを応援すること。 初心者の方がいきなりチームに入って練習…というのは少しハードルが高いけれど、私のイベントやコミュニティで気軽な気持ちで楽しめる経験をしてもらえたら、他のチームに入ったり練習会に参加しやすくなってもらえるかな…と。 運動未経験の私がランニングの入り口になって、他のチームへの橋渡しみたいなこともできるかもしれないと思っています」 退社の決断 イベントはソールドアウトになり、ブランドモデル、ゲストランナー、トレイルやウルトラの練習会など、ランニング関係の仕事が増えた。だが、会社員である以上、会社あってのランニング。実際、朝から午後9時過ぎまで会社で働き、帰宅した後、深夜3時過ぎまでランニングの仕事をこなした。こんな生活をつづけていくと体が壊れてしまう。そう思い、昨年8月頃から自分の生き方について真剣に考えるようになった。 「私は、私がする仕事でお客さまやSTAFFが笑顔になることをしたいと思ってきたんですけど、会社でのポジションや仕事の方向性が本来したいことと乖離してきて‥‥。主催するランニングイベントでは、みんなの笑顔が見られて、コミュニティから個々のつながりができたり、他の練習会やイベントにも行けるようになったと言ってもらえるようになったんです。それがうれしくて、私がやりたいことってそういうことなんだって思いました。やりたいことを優先した方が心地よく生きられる。ダメなら北海道の実家に帰ればいい。とにかくチャレンジしてみようと思い、(清水の舞台から)飛び降りました(笑)」 退社による収入減などリスクがあるが、自分らしい生き方を優先したさやかさんは、今年5月に退社、フリーでランニングの仕事を始めた。...
応援ランナーがわたしの生きがい
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 後編 Text:Shun Sato パンを食べて走っても強くなる 芦野さやかさんは、2022年10月から皇居近くのRe.Ra.KuPRO永田町RUNNING&CAFEというランニングステーションを軸に活動している。 人と人、人とモノ、人と場所が繋がれる、コミュニティの場を作れるような活動を恒常的にしていきたいという想いから、出会ったのがこのランステだ。 「店長さんを紹介していただいて、ここなら会社から近く、カフェスペースもあり、走った後に交流ができる。私がやりたいコミュニティとか、みんなが楽しめる場とか、人とのつながりを持てる場になると思ったんです。コロナ禍以降利用者さんが減ったという平日の朝、ランステや皇居ランが盛り上がる様にと始めさせてもらったのですが、最初は誰も来なかったどうしようと不安もありました」 ここを拠点にパンランや70キロ走など、いろんなイベントを開催しており、インスタからは楽しさが伝わってくる。とりわけ、8年前に個人で始め、2019年に本格的にスタートしたパンランは、人気のイベントだ。 「パンランは、私は内臓が弱くてマラソン後に食事が採れないし、ウルトラでも70キロ以降、何も食べられなかったので、食べて走る練習として始めました。パン屋さんは夜な夜なパンスタグラマーさんの投稿やネットで趣味も兼ねてチェックしています。 私が参加者様全員とコミュニケーションを取りたいのと、みなさまに楽しんでいただきたくて、定員は大体16名前後。2人ペアにして街中を走り、みなさまが満遍なくコミュニケーションを取れるように列を適時入れ替えます。週末イベントは都度コースを変えていて、5〜6キロから70キロまであり、42キロパンランの時は終わった後、ログが食パンの形になるように考えました。『パン食べて走っても強くなるよ』って多くの人に実感してほしいですね(笑)」 ランの楽しさを伝導する パンランに関しては、さやかさんが先駆者になるが、最近はパンランを始めラン+食のイベントが増えている。楽しく走れると評価が高いから増えているわけだが、さやかさんは気にしていない。 「私が始めたとかではなく、パンランが盛り上がったり、パンとランを重ねることで走ることを楽しんでもらえるなら、どんどん増えていってほしいです。パンランが私の子どもだとして、それをみんなで育ててくれる感覚で、むしろうれしいです!」 だが、ビジネス的にどうなのだろうか。競合が増えると、参加する人が減ったり、回数を増やすことが難しくなることもある。 「私は、お客さんを取るという考え方が好きじゃないんです。競合=いいものにしようとお互い努力して、様々なイベントが魅力あるものになれば、参加する方も増えて、走ることに興味を持つ方が増えて…。そうしてランニング業界がもっと盛り上がると嬉しいです」 さやかさんが主催しているのは、ランニングイベントが多い。ランニングチームやランニングクラブが行なうような練習会は少ない。 「練習会は、私が陸上のコーチではないですし、指導することはできないのでメインにはならないです。私のやりたいことはそこではなくて、ランニングの楽しさを伝えたり、繋がりを作ったり、みなさまの走りを応援すること。 初心者の方がいきなりチームに入って練習…というのは少しハードルが高いけれど、私のイベントやコミュニティで気軽な気持ちで楽しめる経験をしてもらえたら、他のチームに入ったり練習会に参加しやすくなってもらえるかな…と。 運動未経験の私がランニングの入り口になって、他のチームへの橋渡しみたいなこともできるかもしれないと思っています」 退社の決断 イベントはソールドアウトになり、ブランドモデル、ゲストランナー、トレイルやウルトラの練習会など、ランニング関係の仕事が増えた。だが、会社員である以上、会社あってのランニング。実際、朝から午後9時過ぎまで会社で働き、帰宅した後、深夜3時過ぎまでランニングの仕事をこなした。こんな生活をつづけていくと体が壊れてしまう。そう思い、昨年8月頃から自分の生き方について真剣に考えるようになった。 「私は、私がする仕事でお客さまやSTAFFが笑顔になることをしたいと思ってきたんですけど、会社でのポジションや仕事の方向性が本来したいことと乖離してきて‥‥。主催するランニングイベントでは、みんなの笑顔が見られて、コミュニティから個々のつながりができたり、他の練習会やイベントにも行けるようになったと言ってもらえるようになったんです。それがうれしくて、私がやりたいことってそういうことなんだって思いました。やりたいことを優先した方が心地よく生きられる。ダメなら北海道の実家に帰ればいい。とにかくチャレンジしてみようと思い、(清水の舞台から)飛び降りました(笑)」 退社による収入減などリスクがあるが、自分らしい生き方を優先したさやかさんは、今年5月に退社、フリーでランニングの仕事を始めた。...

金髪ギャルがランニングにハマった理由
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 前編 Text:Shun Sato 明るく、笑顔で、ランニングを楽しんでる。 “さやぴ”こと芦野さやかさんと一緒に走った人たちは、例外なく同じ印象を持っているのではないだろうか。会社員で趣味で始めたランニングだが、今やマラソンを3時間9分で走り、ウルトラマラソンでサブ10を達成し、パンランを主催するなど“走ること”を仕事にしている。 「人生で唯一ハマったコトがランニングでした」 そう語るさやかさんは、なぜ走り続けるのだろうか――。 学生時代は金髪ギャル 「中学から高校まで部活を始めスポーツは何もしていなかったです。カラオケとバイトの日々で、北海道の田舎でギャルしていました(笑)」 体を動かすことは好きだった。その日にバスケットボールがやりたくなったらバスケ部に行き、翌日はバレー部に顔を出したり、卓球部に遊びに行った。決められた場所で、決められた時間に、決められた人と決められたことをするのが苦手だった。 そのために部活に入らず、アイドルやアニメなどの趣味にハマることもなかった。金髪ギャルで、自由に伸び伸びと青春を謳歌していた。 「その頃、夢中になれるものが特になかったんです」 大学時代は、ファッションに興味があったのでセレクトショップでアルバイトをした。 卒業後、さやかさんはアルマーニというファッションブランドに就職するのだが、そのキッカケになったのは中高時代の福祉関係のボランティアと大学時代に経験した研修だった。母親が福祉のボランティアをしていたので、よく施設に手伝いに行った、 「金髪でお手伝いに行っていたのですが、施設の方々や利用者の方は、私の外見への偏見がなく"手伝いに来てくれる人"として見てくれて、それがすごくうれしかった。それから私も偏見を持たず、誰かの役に立ちたいと思うようになったんです」 日本一の売上達成 大学で福祉心理学を学んでいたさやかさんは、研修で児童養護施設に1ヶ月間通い、様々な理由から親との生活がかなわない子供達と生活を共にした。なんの罪もない彼らは偏見の目で見られたり、就職時に困難な状況になる事も少なくないという現状を知った。 全ての子どもたちが活き活きと働ける場所を自分が作れたら…。自分が好きなファッションと子どもたちの将来が融合できることがしたいと思った。 「その為にまずは一流のサービスを学ぼうと思い、札幌市内を見て回った際に、理想とする接客をしていて、お客様が笑顔で過ごされていて、ここだ!と思ったところがアルマーニでした。早速、『働きたいです』とお手紙を送ったのですが、毎年募集があるわけではないと言われて‥‥でも、その年、たまたま新卒採用があったんです」 さやかさんの熱い思いが伝わり、入社が決まり、表参道店に配属。1年半後に日本一の売上を誇る新宿店に異動。最初は先輩から身だしなみ、声のトーン、話し方、立ち居振る舞い、言葉遣い…ラグジュアリーなおもてなしの場に相応しくないと多くの指摘を受けた。 それから声のトーンを落とし、各お客様にとって心地よいペースで話し、商品知識を丁寧に伝え、全てのお客様にトータルコーディネートで提案をし、相応しいスタッフとなる努力をした。 男女で来店されるお客様については、女性への配慮を忘れず、男性との距離感を保って接客。徐々に男女問わずお客様から支持をいただけるようになり、日本一の売上を達成した。 ここでの経験は今のイベント運営に大きく活きている。...
金髪ギャルがランニングにハマった理由
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 前編 Text:Shun Sato 明るく、笑顔で、ランニングを楽しんでる。 “さやぴ”こと芦野さやかさんと一緒に走った人たちは、例外なく同じ印象を持っているのではないだろうか。会社員で趣味で始めたランニングだが、今やマラソンを3時間9分で走り、ウルトラマラソンでサブ10を達成し、パンランを主催するなど“走ること”を仕事にしている。 「人生で唯一ハマったコトがランニングでした」 そう語るさやかさんは、なぜ走り続けるのだろうか――。 学生時代は金髪ギャル 「中学から高校まで部活を始めスポーツは何もしていなかったです。カラオケとバイトの日々で、北海道の田舎でギャルしていました(笑)」 体を動かすことは好きだった。その日にバスケットボールがやりたくなったらバスケ部に行き、翌日はバレー部に顔を出したり、卓球部に遊びに行った。決められた場所で、決められた時間に、決められた人と決められたことをするのが苦手だった。 そのために部活に入らず、アイドルやアニメなどの趣味にハマることもなかった。金髪ギャルで、自由に伸び伸びと青春を謳歌していた。 「その頃、夢中になれるものが特になかったんです」 大学時代は、ファッションに興味があったのでセレクトショップでアルバイトをした。 卒業後、さやかさんはアルマーニというファッションブランドに就職するのだが、そのキッカケになったのは中高時代の福祉関係のボランティアと大学時代に経験した研修だった。母親が福祉のボランティアをしていたので、よく施設に手伝いに行った、 「金髪でお手伝いに行っていたのですが、施設の方々や利用者の方は、私の外見への偏見がなく"手伝いに来てくれる人"として見てくれて、それがすごくうれしかった。それから私も偏見を持たず、誰かの役に立ちたいと思うようになったんです」 日本一の売上達成 大学で福祉心理学を学んでいたさやかさんは、研修で児童養護施設に1ヶ月間通い、様々な理由から親との生活がかなわない子供達と生活を共にした。なんの罪もない彼らは偏見の目で見られたり、就職時に困難な状況になる事も少なくないという現状を知った。 全ての子どもたちが活き活きと働ける場所を自分が作れたら…。自分が好きなファッションと子どもたちの将来が融合できることがしたいと思った。 「その為にまずは一流のサービスを学ぼうと思い、札幌市内を見て回った際に、理想とする接客をしていて、お客様が笑顔で過ごされていて、ここだ!と思ったところがアルマーニでした。早速、『働きたいです』とお手紙を送ったのですが、毎年募集があるわけではないと言われて‥‥でも、その年、たまたま新卒採用があったんです」 さやかさんの熱い思いが伝わり、入社が決まり、表参道店に配属。1年半後に日本一の売上を誇る新宿店に異動。最初は先輩から身だしなみ、声のトーン、話し方、立ち居振る舞い、言葉遣い…ラグジュアリーなおもてなしの場に相応しくないと多くの指摘を受けた。 それから声のトーンを落とし、各お客様にとって心地よいペースで話し、商品知識を丁寧に伝え、全てのお客様にトータルコーディネートで提案をし、相応しいスタッフとなる努力をした。 男女で来店されるお客様については、女性への配慮を忘れず、男性との距離感を保って接客。徐々に男女問わずお客様から支持をいただけるようになり、日本一の売上を達成した。 ここでの経験は今のイベント運営に大きく活きている。...

ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...
ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...

サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...
サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...