ドロップアウトからの成り上がり

Why I Run:Stories from Runners

vol.3阿久澤隆さん 前編

Text:Shun Sato

「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」

そんな声がランナーから聞こえてくる。

高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。

陸上の強豪校へ

「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」

阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。

「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」

名門陸上部での試練

桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。

「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」

大学3年でのドロップアウト

憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。

「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」

トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。

大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。

「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」

寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。

閉ざされた正社員への道

大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。

「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」

阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。

「お金がなかったのでラブホが自分の生活費、他のバイトで生地などを買っていたのでアパレルブランドを起こしたといっても仕事はバイトがメインでした」

3年間で得た人生訓

年2回の合同展開会に出品する洋服を決める際、4人はそれぞれがデザインしたものを提出した。当時は雑誌のminiみたいなボーイッシュな女の子のスタイルが人気で、それっぽい服がテーマだったが、阿久澤さんのアイデアは一度も採用されなかった。

「ぜんぜんうまくいかなかったですね。4人で1デザインを作るとなると、声のデカい人が押しも強いので、意見が通るんです。自分を含め他の2人も空気を読んで『そうだよね』って聞いて作っていたんです。でも、男4人で別にレディースの服が好きでもないし、着れないし、よく分からない。人気があるっぽいというだけで作ったけど、売れないからお金も無いので仲間内でギクシャクしていったんです。人気のないバンドみたいなものですね。それで一人抜け、二人抜けて、3年経った最後は僕だけになりました」

ひとりになり、もうやめようと思ったが、合同展示会を一緒にやっていた仲間から「参加する?」と聞かれた。「自分ら解散するんだ」というと、「じゃひとりでやればいいじゃん」と言われた。

「そうだなって思って、参加することにしたんです。そこから覚悟を決めたというか、考えを改めました。3年間、偏屈な時間を過ごしたので、もう人の話は聞かない。自分のやりたいもの以外はやりたくないという考えが熟成されました。それがモノつくりにおける自分の軸になっていったんです」

爆売 アンダーウエア

2004年、「ALDIES」というレーベルをスタートさせた。

特にコンセプトも方向性もなかったが、合同展開会のためにキャップとバッグから作り始め、その次の展示会ではメンズのアンダーウエアを作った。当時、ギャル男がブームで、派手なボクサーパンツを作るとよく売れた。「渋谷109」の店に卸すことが決まり、配送代がもったいないので旅行用の大きなバックパックにボクサーパンツをパンパンに入れて納品しようと歩いているたびに警察官に職質を受けた。

「変態扱いされて、警察も理解してくれなくて危うく連行されそうになりました」

市場独占の甘美な時間は長くはつづかなかった。

派手なアンダーウエアがブームになると、次々と新しい企業が参入し、ライバルが増え、低価格な商品が出回るようになった。「もう勝負できない」と思い、撤退した。

14キロのトレイル

その後、「ALDIES」でウエアをつくり始めるとフェスやアウトドア系の雑誌などで特集されるようになった。ブランドが評価されていくと大学3年以来、離れていたランの世界に戻るキッカケが生まれた。

「別にアウトドアなものを作っていたわけじゃないんですけど、アウトドアブランド風な雰囲気になって、取引先もそういう系の所が増えていったんです。その中の一つの取引先のアウトドアショップのオーナーにトレイルランをやっている方がいたんです。僕はトレランって言葉も知らなくて、その方が『今度70キロ走るんだ』というので、『この人、変態だな』と思ったんですよ(笑)。でも、『一緒に走ろう』と言われて、はじめて14キロのレースに出たんです。昔、陸上ちょっとやっていたので『余裕だろ』と思ったら、もうボロボロでした」

16年ぶりのランニング

この時まで阿久澤さんは、まったく走っていなかった。陸上部あるあるでやめたら走らないパターンで、阿久澤さんも退部する時、シューズもウエアも全部置いて「二度と走らない」と覚悟を決めて寮を出ていった。だが、37歳になって16年ぶりに走り、高速を運転して帰る途中、土踏まずが攣った。

「なんか、それがめちゃくちゃ情けなくて‥‥。その後、同じ方から沖縄のトレランに誘われたんです。当時、ランニングウエアって白とか黒しかなかったので、人と違う格好をしたかったので自分だけの一着を作ったんです。それを着てレースに出たら『何、それ?』と言ってくれる人がいて。それなら作ってみようかなと思ったのが、ELDORESOに繋がる1歩になったんです」

 

後編に続く

 

阿久澤さんInstagram アカウント
https://www.instagram.com/tarzan_aqzawa/

ELDORESO Instagram アカウント
https://www.instagram.com/eldoreso/

 

 

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