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RETOで得た刺激と意識改革
RRC member interview 第8クール Bチーム(目標:サブ3時間30分)MVP 山本直哉さん ダイエットがスタート 私が走り始めたのは、コロナの頃でした。 製薬会社で営業をしているので、普段は病院やクリニックに先生や医療従事者の方に会いに行きます。でも、コロナで医療機関の出入りが制限され、リモート主体になったのです。開店休業状態になり、食べて飲んで何もしないでいると見る見るうちに太ってしまって。体重は64キロぐらいだったのが、70キロまで増えて腹が出てぶよぶよでした。お風呂に入る前、自分の身体を見て、「これは本当に何かしないといけない」と思い、痩せるために走り始めました。それからチームに入ろうといろいろ探している時、たまたまタムケンさん(田村コーチ)の記事を読んだのです。その後、有馬(寛之)さんと食事した際、「RETO にタムケンがコーチでいるよ」と聞かされて、ぜひお願いしますって感じで紹介してもらい、応募しました。 つまみ食いからの脱皮 11月にRETOに入ったのですが、それから湘南国際マラソンまでの1か月は、すごく濃密でした。私は、それまで一人で練習していて、YouTubeとか見ながら「これがいいかな」といろんなことをつまみ食いしながら走っていたんです。RETOに入ってからは、メンバーのみなさんに練習やレースプランなどいろいろ教えていただきました。 いかに距離を稼ぐか 一番、驚いたのは、月間走行距離ですね。私はそれまで90キロぐらいしか走っていなかったんですが、みなさん、300キロとか、400キロを走っているじゃないですか。どうやって距離を伸ばすのかを聞いていくと、朝や夜、通勤ランで稼ぐというのを聞いてすごく参考になりました。 Stravaという刺激 私は、それまで金曜日に飲みに行って、土曜日はその影響で半日潰れてみたいな生活をしていたんです(苦笑)。金曜日の飲み会をセーブして、土曜日や日曜日の朝に時間を作って走るようにしました。すると月間220キロまで増えましたし、今もコンスタントに200キロは越えています。今、一番の刺激になっているのが、Stravaです。「みんな、こんなに朝早くから走っているんだ」、「日曜日20キロも走っているよ」とか、これを見たら自分もやらないといけないとすごく思います。 板橋シティマラソン唯一のPB更新 板橋シティマラソンは、暑さと強風の中でのレースで、途中でコンタクトがズレた状態で走っていたんですが、みなさんの応援のおかげで走り切ることができて、PB(3時間31分55秒)を出すことができました。暑さで苦しんでいた時、30キロ手前ぐらいでOS1をいただいて、しかも並走していただいて、ゴミまで受け取ってくれて。OS1ってこんなにおいしいんだって思いましたし、めちゃ力になりました。応援の力ってすごいなって改めて思いましたね。レース後、飲み会で、板橋でPBを出せたのは私だけだったらしく、みなさんに『おめでとう』と言われてうれしかったです(笑)。本当はサブ3.5をクリアして別府大分マラソンの出場権を得たかったので、そこは次に持ち越しになりました。水戸漫遊マラソンにエントリーしているので、そこでサブ3.5を決めたいと思っています。 熱いアルビレックス新潟サポ マラソン以外では、サッカーが好きです。高校までサッカー部で、ボランチでプレーしていました。新潟県の長岡出身なので小さい頃からアルビレックス新潟を応援しています。今も関東での試合を見に行ったりしていますが、基本的にはDAZNで見ています。視聴料金がすごく高くなったんですけど、歯を食いしばって支払い、応援しています(苦笑)。 RETOには、サッカー好きが多いと聞いていますので、みなさんとサッカー談義できたらいいですね。ゲームは、フットサルをたまにするぐらいでユニフォームやスパイクも持っているんですけど、今はタンスの肥やしになっています(苦笑)。最近はランニング用のシューズが増えて、先日もヴェイパーフライネクスト3を買いました。履くとテンションが上がりますし、このシューズで目標を達成したいと思っています。
RETOで得た刺激と意識改革
RRC member interview 第8クール Bチーム(目標:サブ3時間30分)MVP 山本直哉さん ダイエットがスタート 私が走り始めたのは、コロナの頃でした。 製薬会社で営業をしているので、普段は病院やクリニックに先生や医療従事者の方に会いに行きます。でも、コロナで医療機関の出入りが制限され、リモート主体になったのです。開店休業状態になり、食べて飲んで何もしないでいると見る見るうちに太ってしまって。体重は64キロぐらいだったのが、70キロまで増えて腹が出てぶよぶよでした。お風呂に入る前、自分の身体を見て、「これは本当に何かしないといけない」と思い、痩せるために走り始めました。それからチームに入ろうといろいろ探している時、たまたまタムケンさん(田村コーチ)の記事を読んだのです。その後、有馬(寛之)さんと食事した際、「RETO にタムケンがコーチでいるよ」と聞かされて、ぜひお願いしますって感じで紹介してもらい、応募しました。 つまみ食いからの脱皮 11月にRETOに入ったのですが、それから湘南国際マラソンまでの1か月は、すごく濃密でした。私は、それまで一人で練習していて、YouTubeとか見ながら「これがいいかな」といろんなことをつまみ食いしながら走っていたんです。RETOに入ってからは、メンバーのみなさんに練習やレースプランなどいろいろ教えていただきました。 いかに距離を稼ぐか 一番、驚いたのは、月間走行距離ですね。私はそれまで90キロぐらいしか走っていなかったんですが、みなさん、300キロとか、400キロを走っているじゃないですか。どうやって距離を伸ばすのかを聞いていくと、朝や夜、通勤ランで稼ぐというのを聞いてすごく参考になりました。 Stravaという刺激 私は、それまで金曜日に飲みに行って、土曜日はその影響で半日潰れてみたいな生活をしていたんです(苦笑)。金曜日の飲み会をセーブして、土曜日や日曜日の朝に時間を作って走るようにしました。すると月間220キロまで増えましたし、今もコンスタントに200キロは越えています。今、一番の刺激になっているのが、Stravaです。「みんな、こんなに朝早くから走っているんだ」、「日曜日20キロも走っているよ」とか、これを見たら自分もやらないといけないとすごく思います。 板橋シティマラソン唯一のPB更新 板橋シティマラソンは、暑さと強風の中でのレースで、途中でコンタクトがズレた状態で走っていたんですが、みなさんの応援のおかげで走り切ることができて、PB(3時間31分55秒)を出すことができました。暑さで苦しんでいた時、30キロ手前ぐらいでOS1をいただいて、しかも並走していただいて、ゴミまで受け取ってくれて。OS1ってこんなにおいしいんだって思いましたし、めちゃ力になりました。応援の力ってすごいなって改めて思いましたね。レース後、飲み会で、板橋でPBを出せたのは私だけだったらしく、みなさんに『おめでとう』と言われてうれしかったです(笑)。本当はサブ3.5をクリアして別府大分マラソンの出場権を得たかったので、そこは次に持ち越しになりました。水戸漫遊マラソンにエントリーしているので、そこでサブ3.5を決めたいと思っています。 熱いアルビレックス新潟サポ マラソン以外では、サッカーが好きです。高校までサッカー部で、ボランチでプレーしていました。新潟県の長岡出身なので小さい頃からアルビレックス新潟を応援しています。今も関東での試合を見に行ったりしていますが、基本的にはDAZNで見ています。視聴料金がすごく高くなったんですけど、歯を食いしばって支払い、応援しています(苦笑)。 RETOには、サッカー好きが多いと聞いていますので、みなさんとサッカー談義できたらいいですね。ゲームは、フットサルをたまにするぐらいでユニフォームやスパイクも持っているんですけど、今はタンスの肥やしになっています(苦笑)。最近はランニング用のシューズが増えて、先日もヴェイパーフライネクスト3を買いました。履くとテンションが上がりますし、このシューズで目標を達成したいと思っています。
骨折しても走るのはやめられない
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール A2(目標:サブ3時間10分)MVP 加藤麻実子さん 骨折しても走る 私は、常に走っていたいんです。 走るのが大好きなので、腕や肋骨を骨折しても足じゃなければ問題ありません。2日ぐらいは骨折の痛みで気持ち悪いんですけど、それを乗り越えると痛みに慣れてくるので、普通に走れちゃいます。絶対ダメなことなんですけどね(笑) 骨折の痛みよりも走っている時の爽快感が勝るし、走れない辛さを我慢できないんです。怪我しても走ったり、運動してるのは昔からですね。スポーツクラブでレッスン中に膝を骨折したことがあったのですが、3日後、お気に入りの先生のレッスンで踊ってました(笑)。めちゃ痛かったんですけど、アドレナリンが出ていたのか、1時間限定でなんとかなりました。好きなことに対しては、がんばれる性格です(笑) 私のモチベーション RETOは、昔から神野選手の大ファンで入会しました。動機が不純かもしれないけど、神野さんにPBを発表してもらいたい、褒めてもらいたい。それが私が再びマラソンの記録を狙うようになったきっかけです。今年1月の勝田マラソンの翌日にRETOの練習会があったのですが、神野さんが来て、「PB出せなくて残念でしたね」と言われた瞬間、悔しさが爆発して、次の東京マラソンで絶対PB更新するぞって思いました。 うれし涙のゴール 東京マラソンは、スタートの3日前に外反母趾が腫れ上がってしまい、スタート地点になんとか立ちましたが、痛みをこらえるため全集中の45.195kmでした。走っている途中、時計がおかしくなって、「私、こんなに遅かったっけ」と愕然としたのですが、もうなるようにしかならないと思い、気持ちで走っていました。最後の2キロ地点、「PBが出せる」とわかった時、勝田の後で神野さんに言われた「残念だったね」という言葉を思い出し、1秒でも更新しようと無我夢中で走りました。ゴールしたら念願のPB(3時間9分46秒)。RETOのメンバーがいて、うれしくて涙がこみ上げてきました。練習会での神野さんからのPB発表の時はドキドキしたし、あの嬉しさは忘れられません。 ホノルルマラソンがはじまり 私がマラソンを始めたのは、近所に出来たスポーツクラブに入り、ホノルルマラソンのポスターを見て、私も走りたいと思ったからです。それまで走るのは嫌いだったんですが、そこからトレッドミルで毎日5キロを走り始めました。だんだん走ることが楽しくなり、ハマっていきました。ノリでマラソン大会に初めて出た時は、上下ウインドブレーカーで時計はスポーツ系じゃなく、おしゃれ系で走ったんです。今ならあり得ないですね(笑) 信越五岳への決意 もともと山が好きで、小さい頃からよく山を登っていました。RETOに入る前は山ばかり行っていたくらいで、トレイルランニングは大好きな趣味の一つです。今年は、トレイルランニングレースの信越五岳110キロで結果を出したいと思っています。昨年は夏に怪我してスタート地点に立つので精一杯で、完走できたことに満足でしたが、今年は記録にこだわりたくて。有名なトレイルランナーの方が「マラソンとトレイルは別もの」と教えてくださったので、そこで勝負するためにはトレイルに特化した練習をこの春、夏にしないとだめだと思い、他に数レース予定しているので、RETOから一時、離れることにしました。 お互いを高め合う環境 普段から一人で走ることが多く、RETOでもどちらかというと一匹狼的な感じで、みんなとめちゃくちゃ仲良くなる感じではないのですが、みんなから刺激をたくさんもらっていたから、一時期でもRETOから離れるのは、やっぱりちょっと寂しいです。スピード練習の後とか、みんな地べたに座りこんで握手したり、肩を叩きあったりしているじゃないですか。そういう姿を見ていると、いいなと思いますね。私は、まだそこまで追い込めていないけど、「やらないと」と思わせてくれたのはRETOのおかげです。あと、応援が本当に素晴らしいですね。レースでRETOのメンバーが応援に来てくれた時、あと数キロ頑張ればみんなに会えると思うとめちゃくちゃ力が出ます。そのために走るみたいな感じだったので、応援の力はすごいなと思いました。 ふたたびロードへ トレイルの挑戦が終わったら、またRETOに戻ってきます。ロードの目標は、サブ3に近いところまで行くこと。コーチの聖也(高木)さんには、「本番に強い」と言われたことがありますが、私もなんとなくそうだなぁと自覚しているところがあります。これからも本番で強い所を見せ、結果を出していきたいと思っています。 また神野さんにPB発表してもらうために。
骨折しても走るのはやめられない
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール A2(目標:サブ3時間10分)MVP 加藤麻実子さん 骨折しても走る 私は、常に走っていたいんです。 走るのが大好きなので、腕や肋骨を骨折しても足じゃなければ問題ありません。2日ぐらいは骨折の痛みで気持ち悪いんですけど、それを乗り越えると痛みに慣れてくるので、普通に走れちゃいます。絶対ダメなことなんですけどね(笑) 骨折の痛みよりも走っている時の爽快感が勝るし、走れない辛さを我慢できないんです。怪我しても走ったり、運動してるのは昔からですね。スポーツクラブでレッスン中に膝を骨折したことがあったのですが、3日後、お気に入りの先生のレッスンで踊ってました(笑)。めちゃ痛かったんですけど、アドレナリンが出ていたのか、1時間限定でなんとかなりました。好きなことに対しては、がんばれる性格です(笑) 私のモチベーション RETOは、昔から神野選手の大ファンで入会しました。動機が不純かもしれないけど、神野さんにPBを発表してもらいたい、褒めてもらいたい。それが私が再びマラソンの記録を狙うようになったきっかけです。今年1月の勝田マラソンの翌日にRETOの練習会があったのですが、神野さんが来て、「PB出せなくて残念でしたね」と言われた瞬間、悔しさが爆発して、次の東京マラソンで絶対PB更新するぞって思いました。 うれし涙のゴール 東京マラソンは、スタートの3日前に外反母趾が腫れ上がってしまい、スタート地点になんとか立ちましたが、痛みをこらえるため全集中の45.195kmでした。走っている途中、時計がおかしくなって、「私、こんなに遅かったっけ」と愕然としたのですが、もうなるようにしかならないと思い、気持ちで走っていました。最後の2キロ地点、「PBが出せる」とわかった時、勝田の後で神野さんに言われた「残念だったね」という言葉を思い出し、1秒でも更新しようと無我夢中で走りました。ゴールしたら念願のPB(3時間9分46秒)。RETOのメンバーがいて、うれしくて涙がこみ上げてきました。練習会での神野さんからのPB発表の時はドキドキしたし、あの嬉しさは忘れられません。 ホノルルマラソンがはじまり 私がマラソンを始めたのは、近所に出来たスポーツクラブに入り、ホノルルマラソンのポスターを見て、私も走りたいと思ったからです。それまで走るのは嫌いだったんですが、そこからトレッドミルで毎日5キロを走り始めました。だんだん走ることが楽しくなり、ハマっていきました。ノリでマラソン大会に初めて出た時は、上下ウインドブレーカーで時計はスポーツ系じゃなく、おしゃれ系で走ったんです。今ならあり得ないですね(笑) 信越五岳への決意 もともと山が好きで、小さい頃からよく山を登っていました。RETOに入る前は山ばかり行っていたくらいで、トレイルランニングは大好きな趣味の一つです。今年は、トレイルランニングレースの信越五岳110キロで結果を出したいと思っています。昨年は夏に怪我してスタート地点に立つので精一杯で、完走できたことに満足でしたが、今年は記録にこだわりたくて。有名なトレイルランナーの方が「マラソンとトレイルは別もの」と教えてくださったので、そこで勝負するためにはトレイルに特化した練習をこの春、夏にしないとだめだと思い、他に数レース予定しているので、RETOから一時、離れることにしました。 お互いを高め合う環境 普段から一人で走ることが多く、RETOでもどちらかというと一匹狼的な感じで、みんなとめちゃくちゃ仲良くなる感じではないのですが、みんなから刺激をたくさんもらっていたから、一時期でもRETOから離れるのは、やっぱりちょっと寂しいです。スピード練習の後とか、みんな地べたに座りこんで握手したり、肩を叩きあったりしているじゃないですか。そういう姿を見ていると、いいなと思いますね。私は、まだそこまで追い込めていないけど、「やらないと」と思わせてくれたのはRETOのおかげです。あと、応援が本当に素晴らしいですね。レースでRETOのメンバーが応援に来てくれた時、あと数キロ頑張ればみんなに会えると思うとめちゃくちゃ力が出ます。そのために走るみたいな感じだったので、応援の力はすごいなと思いました。 ふたたびロードへ トレイルの挑戦が終わったら、またRETOに戻ってきます。ロードの目標は、サブ3に近いところまで行くこと。コーチの聖也(高木)さんには、「本番に強い」と言われたことがありますが、私もなんとなくそうだなぁと自覚しているところがあります。これからも本番で強い所を見せ、結果を出していきたいと思っています。 また神野さんにPB発表してもらうために。
エンブレムのプライドを胸に走る
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール A+チーム(目標:サブ2時間50分)MVP 渡部健太さん 途中まで300点のレース 東京マラソンでPB(2時間49分51秒)を出せて嬉しかったです。 37キロまでは300点ぐらいのレース展開でした。そこでもう自己ベストはほぼ確信したのですが、サブエガ(2時間50分切り)を出す上ではそこからの5キロがめちゃくちゃしんどかったです。38キロでキロ4分ぐらいに落ちて、別にPB更新で満足するのでもよかったんですけど、50分を切れる可能性があるのにその栄光を自ら手放すのは嫌でした。 覚悟を決めて走った東京マラソン 東京マラソンは、そもそも当選しないと走れないので、今後、走れるかどうかわからない。人生、最初で最後の覚悟で臨んだので、ここでやり切らなかったら絶対に後悔すると思って、39キロからのラスト3キロは必死で盛り返しました。 確か残り2キロ地点だったと思うんですけど、そこでのRETOのみなさんの応援は、めっちゃ響きました。この時はマジで上げないと50分切りが出来ないと思ったのですが、その背中を押してもらいました。 ウルトラの経験が活きた サブエガを達成できたのはウルトラマラソンの経験が活きたからだと思います。100キロをひとりで淡々と走っていくことでメンタルが相当に鍛えられました。あと、しんどくなった時の対処法も学びました。キツくなって「なんで自分は走っているんだろう」と考えた途端にその時点で一気に落ちてしまいます。そう考える時点でポジティブではなくなっているので、絶対に考えないように遠くの景色を見たり、聴いている音楽を口ずさんだりして、走ることから気持ちをそらしています。東京マラソンの時も普段、東京の街の真ん中なんか走れないじゃないですか。そこを走ること、そして見える景色を十分に楽しもうと思って途中キョロキョロしながら走りました。それでちょっと疲れて(苦笑)。でも、最終的にそうやって気を紛らわして走れたことが良い結果に繋がったと思います。 X(旧Twitter)で存在が拡散 東京を走った時も感じましたが応援がすごく力になるし、反対にするのも楽しいですね。それは自分が北海道コンサドーレ札幌というサッカーチームを熱く応援していることが大きいのかなと思います。ユニフォームが赤黒で目立つし、それを着て走ると沿道の人がすごく声をかけてくれるんです。東京では、残り5キロの田町の付近ではいろんなユニフォームを着た人が応援していて、チームの応援歌を歌ってくれました。その地点で応援していた札幌サポーターの方に「Jリーグのユニフォーム着たランナーで1位は昨年の限定ユニフォームで背番号6中村選手の方です!」と、ハッシュタグも添えてXで拡散されたんです。あとで「それ自分です」と返信して盛り上がりました(笑)。エンブレムを背負って走るのは、RETO タンクを着て走るのと同じで、自分がその代表みたいな意識になります。だから、恥ずかしい走りができないし、他のチームのユニフォームを着た人には負けられないと思って走りました。 4歳からコンサドーレ札幌と歩む コンサドーレは4歳の時からファンです。当時のホームスタジアムが家から歩いて20分ぐらいだったのでよく観に行っていました。保育園の頃にコンサドーレのサッカースクールに入って、そこで仲良くなった子の両親が応援団の人でした。それがきっかけで今でもできるだけ試合に行くようにして、ゴール裏で飛び跳ねたり、旗を振ったりして応援しています。もし、練習会で声が潰れていたら察してください。コンサドーレは僕の人生そのものです。 地元・札幌でPBを狙う 次の最大の目標は、北海道マラソンでサブエガを出すこと。僕の地元ですし、RETOを始め、友人や家族の応援がすごいと思うので、楽しみです。東京マラソンよりも厳しいコンディションになるのは間違いないと思うんですけど、そこで自己ベストを出すことができたら、それ以上に最高のことはないので(笑)。
エンブレムのプライドを胸に走る
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール A+チーム(目標:サブ2時間50分)MVP 渡部健太さん 途中まで300点のレース 東京マラソンでPB(2時間49分51秒)を出せて嬉しかったです。 37キロまでは300点ぐらいのレース展開でした。そこでもう自己ベストはほぼ確信したのですが、サブエガ(2時間50分切り)を出す上ではそこからの5キロがめちゃくちゃしんどかったです。38キロでキロ4分ぐらいに落ちて、別にPB更新で満足するのでもよかったんですけど、50分を切れる可能性があるのにその栄光を自ら手放すのは嫌でした。 覚悟を決めて走った東京マラソン 東京マラソンは、そもそも当選しないと走れないので、今後、走れるかどうかわからない。人生、最初で最後の覚悟で臨んだので、ここでやり切らなかったら絶対に後悔すると思って、39キロからのラスト3キロは必死で盛り返しました。 確か残り2キロ地点だったと思うんですけど、そこでのRETOのみなさんの応援は、めっちゃ響きました。この時はマジで上げないと50分切りが出来ないと思ったのですが、その背中を押してもらいました。 ウルトラの経験が活きた サブエガを達成できたのはウルトラマラソンの経験が活きたからだと思います。100キロをひとりで淡々と走っていくことでメンタルが相当に鍛えられました。あと、しんどくなった時の対処法も学びました。キツくなって「なんで自分は走っているんだろう」と考えた途端にその時点で一気に落ちてしまいます。そう考える時点でポジティブではなくなっているので、絶対に考えないように遠くの景色を見たり、聴いている音楽を口ずさんだりして、走ることから気持ちをそらしています。東京マラソンの時も普段、東京の街の真ん中なんか走れないじゃないですか。そこを走ること、そして見える景色を十分に楽しもうと思って途中キョロキョロしながら走りました。それでちょっと疲れて(苦笑)。でも、最終的にそうやって気を紛らわして走れたことが良い結果に繋がったと思います。 X(旧Twitter)で存在が拡散 東京を走った時も感じましたが応援がすごく力になるし、反対にするのも楽しいですね。それは自分が北海道コンサドーレ札幌というサッカーチームを熱く応援していることが大きいのかなと思います。ユニフォームが赤黒で目立つし、それを着て走ると沿道の人がすごく声をかけてくれるんです。東京では、残り5キロの田町の付近ではいろんなユニフォームを着た人が応援していて、チームの応援歌を歌ってくれました。その地点で応援していた札幌サポーターの方に「Jリーグのユニフォーム着たランナーで1位は昨年の限定ユニフォームで背番号6中村選手の方です!」と、ハッシュタグも添えてXで拡散されたんです。あとで「それ自分です」と返信して盛り上がりました(笑)。エンブレムを背負って走るのは、RETO タンクを着て走るのと同じで、自分がその代表みたいな意識になります。だから、恥ずかしい走りができないし、他のチームのユニフォームを着た人には負けられないと思って走りました。 4歳からコンサドーレ札幌と歩む コンサドーレは4歳の時からファンです。当時のホームスタジアムが家から歩いて20分ぐらいだったのでよく観に行っていました。保育園の頃にコンサドーレのサッカースクールに入って、そこで仲良くなった子の両親が応援団の人でした。それがきっかけで今でもできるだけ試合に行くようにして、ゴール裏で飛び跳ねたり、旗を振ったりして応援しています。もし、練習会で声が潰れていたら察してください。コンサドーレは僕の人生そのものです。 地元・札幌でPBを狙う 次の最大の目標は、北海道マラソンでサブエガを出すこと。僕の地元ですし、RETOを始め、友人や家族の応援がすごいと思うので、楽しみです。東京マラソンよりも厳しいコンディションになるのは間違いないと思うんですけど、そこで自己ベストを出すことができたら、それ以上に最高のことはないので(笑)。
子どもたち、ありがとう
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール Cチーム(目標サブ4)MVP 吉岡美帆さん 半年間続いた介護 MVPは、ちょっと狙っていました(笑)。 マラソンは、年1回しか走らないので、東京マラソンでPBを出さないといけないと思っていたんですけど、見事にハマりました(笑)。 私は、昨年の5月から10月まで6カ月間、RETOを離れて11月から復帰しました。その間、犬の介護をしていたのです。私には子どもがいないので、犬が家族同然でした。パピヨン夫婦と3匹の子どもに恵まれたんですが、末っ子は友人のところに行き、私のところに最後までいてくれたのが次男坊だったんです。介護が必要になり、1日3時間程度しか寝られず、それが半年間つづきました。それまでRETOで走っていたおかげで体力がついていたので、なんとか支えることができたので走っていて良かったなと思いましたね。 再び走り始めた理由 最後、公園に散歩に行って、そこで看取ったのですが、良い見送りができたことで自分なりに納得することができました。RETOに戻ったのは、「このまま泣いて暮らしていてもしょうがないよ。自分のやりたいことをやりなよ」って、あの子が背中を押してくれたからで、私自身も前を向いて生きたいと思ったからです。 苦しんだ東京までの道程 第7クールから復帰したのは、東京マラソンに間に合うかもしれないと思ったのもあります。でも、実際に戻ると前にいたチームの人は上のチームに昇格し、新しい人も増えてちょっとアウェイ感がありました(笑)。走りは、それまで半年間、ほとんど走っていなくて月で10キロから20キロ、6カ月のトータルで100キロぐらいでした。当然、練習会のメニューにはついていけなくて、このままだとダメになる。とにかく練習会に参加し、走る習慣を取り戻そうとタムケン練を始め、自主練に参加するようにしました。 自分を信じてスタートへ 1月の富津合宿は、自分の現状を確認しようと参加したのですが、1キロのインターバルがダメで、翌日のロング走もほとんど走れずにリタイヤしてめちゃくちゃへこみました。2月に小田鎌をいつもより速いペースで走り切って、少し自信が取り戻せたのですが、足に骨棘が出来て、すごく痛かったんです。それでななちゃん(野崎菜七子さん)に相談したら「対外衝撃波がいいんじゃない」って言われて、「どうかな」と思ってやってみたら、うれしいことに2回で痛みが取れたんです。それから痛みが出なかったので、あとは自分を信じてスタートしようと東京マラソンに臨みました。 子どもたちにありがとう レースは、うちの子たちの遺骨を入れて作った指輪をつけ、次男坊が車イスの時の履いていた靴下をポケットに入れて走りました。RETOの仲間や家族の応援とかがあって元気をたくさんもらいましたし、うちの子たちが一緒に走ってくれた感じがして、最後までがんばることができました。昨年の名古屋ウィメンズではゴールした後、号泣したんですけど、今回は胸がいっぱいでしたが涙はなく、晴れ晴れとした気持ちになり、本当に走ってよかったと思いました。 Cで先頭を走る覚悟 今シーズンは、3時間45分を切ることが大きな目標ですが、まずはCチームで先頭で走れるようになりたいと思っています。練習は、最初はペースの設定通りに走り、ラスト1周はフリーとかになるじゃないですか。その時、前で走っていると抜かれる時に邪魔だなとか考えてしまうんです。今は、そのフリーでみんなに勝てる気がしないので、走れるようになったら先頭で走り、そのままフリーでも先頭で練習を終えられるようになりたいですね。それは、若い人に負けないとかではなく、私は50歳半ばですが、その年齢になってもやろうとも思えばできるし、目標を持てばいくつになってもがんばれるんだよというのを伝えていきたいからです。そうして、ランニングを楽しくつづけていけたらといいなと思っています。
子どもたち、ありがとう
RRC member interview text:Shun Sato 第8クール Cチーム(目標サブ4)MVP 吉岡美帆さん 半年間続いた介護 MVPは、ちょっと狙っていました(笑)。 マラソンは、年1回しか走らないので、東京マラソンでPBを出さないといけないと思っていたんですけど、見事にハマりました(笑)。 私は、昨年の5月から10月まで6カ月間、RETOを離れて11月から復帰しました。その間、犬の介護をしていたのです。私には子どもがいないので、犬が家族同然でした。パピヨン夫婦と3匹の子どもに恵まれたんですが、末っ子は友人のところに行き、私のところに最後までいてくれたのが次男坊だったんです。介護が必要になり、1日3時間程度しか寝られず、それが半年間つづきました。それまでRETOで走っていたおかげで体力がついていたので、なんとか支えることができたので走っていて良かったなと思いましたね。 再び走り始めた理由 最後、公園に散歩に行って、そこで看取ったのですが、良い見送りができたことで自分なりに納得することができました。RETOに戻ったのは、「このまま泣いて暮らしていてもしょうがないよ。自分のやりたいことをやりなよ」って、あの子が背中を押してくれたからで、私自身も前を向いて生きたいと思ったからです。 苦しんだ東京までの道程 第7クールから復帰したのは、東京マラソンに間に合うかもしれないと思ったのもあります。でも、実際に戻ると前にいたチームの人は上のチームに昇格し、新しい人も増えてちょっとアウェイ感がありました(笑)。走りは、それまで半年間、ほとんど走っていなくて月で10キロから20キロ、6カ月のトータルで100キロぐらいでした。当然、練習会のメニューにはついていけなくて、このままだとダメになる。とにかく練習会に参加し、走る習慣を取り戻そうとタムケン練を始め、自主練に参加するようにしました。 自分を信じてスタートへ 1月の富津合宿は、自分の現状を確認しようと参加したのですが、1キロのインターバルがダメで、翌日のロング走もほとんど走れずにリタイヤしてめちゃくちゃへこみました。2月に小田鎌をいつもより速いペースで走り切って、少し自信が取り戻せたのですが、足に骨棘が出来て、すごく痛かったんです。それでななちゃん(野崎菜七子さん)に相談したら「対外衝撃波がいいんじゃない」って言われて、「どうかな」と思ってやってみたら、うれしいことに2回で痛みが取れたんです。それから痛みが出なかったので、あとは自分を信じてスタートしようと東京マラソンに臨みました。 子どもたちにありがとう レースは、うちの子たちの遺骨を入れて作った指輪をつけ、次男坊が車イスの時の履いていた靴下をポケットに入れて走りました。RETOの仲間や家族の応援とかがあって元気をたくさんもらいましたし、うちの子たちが一緒に走ってくれた感じがして、最後までがんばることができました。昨年の名古屋ウィメンズではゴールした後、号泣したんですけど、今回は胸がいっぱいでしたが涙はなく、晴れ晴れとした気持ちになり、本当に走ってよかったと思いました。 Cで先頭を走る覚悟 今シーズンは、3時間45分を切ることが大きな目標ですが、まずはCチームで先頭で走れるようになりたいと思っています。練習は、最初はペースの設定通りに走り、ラスト1周はフリーとかになるじゃないですか。その時、前で走っていると抜かれる時に邪魔だなとか考えてしまうんです。今は、そのフリーでみんなに勝てる気がしないので、走れるようになったら先頭で走り、そのままフリーでも先頭で練習を終えられるようになりたいですね。それは、若い人に負けないとかではなく、私は50歳半ばですが、その年齢になってもやろうとも思えばできるし、目標を持てばいくつになってもがんばれるんだよというのを伝えていきたいからです。そうして、ランニングを楽しくつづけていけたらといいなと思っています。
ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...
ランニングをライフスタイルのど真ん中に
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 後編 Text:Shun Sato フロンティアへの挑戦 牧野英明さんは現在、会社でBtoBを専門とするクリエイティブ部署に所属している。企業PRビジネス、BtoBビジネスが主たる仕事だ。 「ブランドを使って他社製品を作ったり、プロデュースしたりしています。これはコラボレーションとは違って、商品は自社では販売していないんですけど、他の店でブランド名がついた商品が販売されています。ただ、名前を貸すだけではなく、商品のディレクションとか、プロモーションとか、クライアントと二人三脚で取り組むのが僕らのスタイルなんです。」 例えば、大手スポーツ量販店で販売されているプライベートブランドのプロデュースモデルがある。これは牧野さんのマラソンやランニングでの経験を活かして生まれたプロダクトになっている。こうしたランと仕事が重なるようになったのは、最近だという。 「僕は、もともと販売を10年以上やった後にその経験を活かしウェブ担当となり、商品コメントを書いたりしていたんですが、社内公募があって、自分の強みを活かせることをやりたいと思って今の部署に異動したんです。 そもそも僕は良い子ちゃんではなかったので、すぐに上司に噛み付く不良社員でした(苦笑)。でもサブ3を達成したことで会社でも仕事以外で一目置かれるようになり、社内外で『おもしろい奴がいる』みたいに取り上げられて、業界の人達と仕事ができるようになりました。そうしたら会社でも不得意なことをやらせておくよりも、得意なことをやらせておいた方が会社にとって得だっていうことで自分のポジションを獲得した感じです。今や絶対に仕事として携われないと思っていたバイイングの権限もいただけるようになり、自分が一番びっくりしてます。まさに、窓際社員が窓から外に出て、また窓から戻ってきた感じです(笑)」 ウエア作りにおける自分の強味 今のラン二ングシーンは、ラン二ングのインフルエンサーがウエアを作ったり、チームごとに自分たちでデザインしたウエアで走るようになってきている。また、いろんなメーカーがランニング業界に参入し、新しいウエアが販売されている。そういう競争の中で牧野さんが他との違いを明確にできるところは、自身の経験にあるという。 「スポーツウエアを作っていますが、僕が他と違うところは、何十年とファッション界に従事し、その造詣が深いところかなと思っています。ラン二ングだけど、僕はファッションという専門分野の知識がすごく重要だと思うんです。マルチタスクというか、ランとファッションと並行してものつくりをすることで、独特のカラーが出てくると思っているんです。端的にいうとランニングもファッションのことも両方分かるというポジションでやれているのが僕の強みかなと思っています」 革新的なコラボ 牧野さんはランニングウエアをプロデュースし、メーカーのサポートをし、イベントに参加し、マラソンの大会に出る。 この人は、いったい、何をしている人なのだろうか。 普通は個人の活動を枠にはめたがるが、牧野さんは「何でも屋」と笑顔でそう語る。 「それこそウチの会社の精神なんです。世の中にあるおもしろいもの、いいものをセレクトしてくるのがセレクトショップです。だから、興味のあるもの、おもしろいものには顔を突っ込んでいくし、その場を楽しんでいます」 フットワークが軽く、いろんなところに顔を出していくのは、仕事の側面もあるが、人と人を結びつけてラン二ングの輪を広げ、その化学変化を見るのが楽しいからでもある。例えば、アシックスとランニングウェアブランドのエルドレッソを繋げたのは、実は牧野さんだったらしい。 「エルドレッソとコラボできればすごいものが生まれますよってアシックスに紹介したら、本当にそうなりました(笑)。もちろん僕はただのキッカケを作っただけではありますが、そういうブランドを知らないと繋げないので、そういうネタをいくつも持つためにもいろんなとこに顔を出すのは大事だなと思っています」 どこの誰でもない自分 ファッションへの造詣が深く、ラン二ング業界にも明るい。本業でモノづくりにも取り組んでいるためプロダクト作りのノウハウもある。それなら自らブランドを起こすことが容易だと思うのだが、牧野さんは「それはない」という。 「僕は、アイデアは持っていると思うんですけど、何か新しいブランドを作って自分でやるとかはないですね。とにかくビジネスセンスがダメダメなので。だからフリーになることも正直、会社をクビにでもならない限りはないと思います(笑)。出世はまったくしていないですけど、いま上司とは相性が良くて評価してもらっていますし、自由に自分のやりたいことをやらせてもらっている環境にいます。これからも機会があればなんでもやっていきたいですね」 牧野さんのやりたいことをやる、いいものを追求するというマインドは、ラン二ングにも顕著に見て取れる。RETO...
サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...
サブ3が僕の人生を変えてくれた
Why I Run:Stories from Runners vol.1 牧野英明さん 前編 Text:Shun Sato セレクトショップの社員というより、ランナーがたまたまセレクトショップの社員だったという方が正しいかもしれない。マラソンを2時間47分で走り、いろんなレース、様々なイベントにゲストとして参加し、ラン二ングウエアの商品作りやプロモーションに携わる。 「ラン二ングに関わるすべてが楽しい」 そう語る牧野英明さんは、なぜ走り続けているのだろうか――。 セカンドチャンス到来 牧野さんがファッションに興味を持ち始めたのは、中学の頃だった。 「当時、バスケをやっていたんですけど、バッシュでエアジョーダンが人気があって、古着も流行っていたんです。親からすると中古の服に金を払うのってなんなんだって感じだと思うんですけど、シンプルに格好良かった。当時はギャル男かストリート系で人気が二分されていたんですけど、僕はストリート系が好きで『Boon』や『SMART』とかを見ていました。その頃、洋服に興味を持つようになったのが、自分にとって最初のタ-二ングポイントになりました」 大学に進学してからは、ファッションを追求する情熱がさらに高まった。卒業後もその道を目指そうと考えた。 「時代的に洋服の販売とか、あまり認められていないというか、それで生計を立てていくのが一般的じゃなかったんです。デザイナーへの憧れもなくて、それでも洋服関係の会社に就職したいと思っていろいろ受けました。全部ダメだったんですけど、そのなかで唯一、最終面接までいったのが大手セレクトショップのB社だったんです」 もしかしたら自分の好きなことを仕事にできるかもしれない。そう思っていたが、採用は不合格だった。 「縁がなかったんだなぁって思いましたね。でも、いろんなめぐり合わせがあって、アルバイトで採用してもらったんです。そこからさらに洋服好きが止まらなくなり、アルバイト代をすべて洋服につぎ込んで、借金まみれのような生活をしていました(苦笑)」 牧野さんにセカンドチャンスが訪れたのは、アルバイトとして働き始めた1年半後だった。中途採用に応募し、合格した。 「僕にとって1年半はすごく長く感じたんですけど、周囲には10年やっても社員になれない人もいた。そういう意味では社員になれたのは、すごくラッキーでした」 ダサくて格好悪いスポーツ 自分が好きなことを生業にできたわけだが、それから自分の趣味である洋服屋巡りをして、洋服を収集するなど、ファッション一筋の人生を突っ走った。 だが、自分の趣味を仕事にしてしまうと没頭し、それ以外、広がりを持てなくなってしまう。高校時代は陸上部でもともとスポーツが好きな牧野さんは、ある時、第2回東京マラソン(2008年)に申し込んだ。 「高校時代、陸上部だったんですけど、こんなにダサくて格好の悪いスポーツはやってられないと思ってやめちゃったんです。でも、たまにランニングするとスッキリするなーというのは思っていたんですよ。体型維持を兼ねて走っていたんですけど、ノリでとりあえずマラソンのエントリー登録をしたんです。そうしたら当選したんですけど、まさかお金を払うとは思っていなくて(苦笑)。1万円も払うんかいって思ったんですけど、払えばもったいないから走るかなと思ってエントリーしました」 今から16年前の2008年、日本のラン二ングシーンは、2007年に開催された東京マラソンをキッカケに徐々にその熱が高まりつつあった。だが、今のような爆発的なランニングブームまでには至らず、どちらかというとまだ夜明け前という感じだった。 「当時は、ラン二ングがまだクールなものじゃなくて、走っている人も白いタンクトップに短いパンツみたいな感じだったんですよ(笑)。うちの会社からマラソンに出る人なんていなかったですし、洋服屋周りの人も誰も走っていなかった。僕はファッションの世界で仕事をしているけど、『あえてそういうダサい感じのことをやっているんだぜ』みたいな、ちょっと斜に構えた感じでラン二ングをやっていたんです」 タイムが名刺 2000年代のラン二ングは、あか抜けないスポーツで、牧野さんにとってはラン二ングもある意味、他者との違いをアピールするファッションのひとつみたいな位置付だったのかもしれない。もうひとつ本気になり切れない意識を変えてくれたのが、ラン二ングクラブとの出会いだった。...