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RETOの環境が自分を変えてくれた
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール B+チーム(目標:フルマラソンsub3時間15分)MVP 親松健太さん 10か月、3回のマラソンで70分のタイム短縮 水戸黄門漫遊マラソンで3時間15分40秒を出し、今年3月の東京マラソン(3時間58分11秒)から43分タイムを縮めることができました。昨年12月の湘南国際マラソンが初フルで4時間25分だったのですが、3回目のフルマラソンでこれだけタイムを縮められたことに自分でも驚いています。今回の水戸ではMin目標をサブ3.5、Max目標をサブ3.15で設定し、結果としてMax目標に近い形でゴールできて、RETOのメンバーからも「大幅PBおめでとう!」と沢山声をかけていただき、すごく嬉しかったです。レース中に声を掛け合って並走した同期の菜々子(飯塚)や現地まで応援・サポートに駆けつけてくれたRETO応援隊には本当にパワーをもらえましたし、そのおかげで自分の実力以上の走りができたと感謝しています。 自分を変えたい欲求 RETOに入って9ヶ月が経ちますが、「環境が人を変える」ということを強く感じています。というのも、以前までの自分はランニングもジムも始めては辞めの繰り返しで、なかなかモチベーションが保てず、継続してトレーニングを行うことが出来ずにいました。そんな意志の弱い自分を変えたいという思いもあり、「RETO RUNNING CLUB」の募集をインターネットで偶然見つけ、思い切って応募しました。 身についたランニングの習慣 RETOでは、メンバーそれぞれが自分の目標を持っていて、それを達成するためにチームでサポートしながら共に高め合う雰囲気があるので、自ずと頑張ろうという気持ちになれます。隔週の公式練習会以外にもメンバー企画の定期的な朝練や週末練習会が多くあるおかげで、自然とランニングする習慣が身に付きましたし、コーチ陣やメンバーから都度アドバイスをもらえ、ランニングの知識もだいぶついてきました。 また、普段の練習記録をストラバというランニングアプリで管理、シェアしているのですが、仲間の練習内容を見てモチベーションに役立てています。自分があまり走れていないときは変に焦ってしまうので、その時は敢えて見ないようにするなどして都合よく使っています(笑) 水戸への流れ RETOに入ってからランニングに対する意識が変わって、行動が変わったのは間違いないです。これまで月間100km走れば満足していた自分が、気付けば月間250〜300kmを継続して走るようになり、すっかりランニングが生活の一部になりました。走行距離が増えることでケガのリスクも高まるので、少しでも足に違和感が出たときは練習量を落としたり、思い切って休むなどしてケガをしないように調整してきました。6〜8月は暑くてスピードも出なかったので走行距離に重きを置き、9月に入ってからジョグのペースを上げたり、ジョグの後にウィンドスプリントを入れたりと練習の質も意識して取り組みました。水戸のちょうど1週間前に東京レガシーハーフに出走したのですが、そこで今年6月に出したハーフタイムのPBを7分更新することができ、これまでの練習に手応えを感じることが出来ました。レガシーで良い流れを作って、水戸にそのまま臨めたことが良かったように思います。 目標に挑戦し、達成感を得る ―なぜ、走るのですか。 健康維持や体形維持のためという点は以前と変わりませんが、RETOに入ってからは自分で決めた目標にチャレンジして達成感を得るためという理由がそこに加わりました。正直、大人になってからここまで夢中になれること、成長を感じられることが見つかるとは思っていませんでしたし、これまでより明らかにライフが充実しているように感じます。ちょっとした悩み事も走ったらそのモヤモヤが晴れてスッキリしたなんてことは結構ありますし、走った分ごはんもお酒も美味しいし、日々の生活に良いことしかありません。最近では、小1の娘が急に「今度パパと走りたい!」と言ってくれ、年末に親子マラソンに出ることになりました。自分の趣味に娘が興味を持ってくれたことは嬉しいことですし、これを機に娘が少しでも走ることを好きになるようにサポートしていきたいと思います。今後も自分のマラソンの目標はしっかりと追いかけつつ、仲間の目標の応援やトレイルへの挑戦など活動範囲を広げてランニングライフをもっと楽しみたいと思います。
RETOの環境が自分を変えてくれた
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール B+チーム(目標:フルマラソンsub3時間15分)MVP 親松健太さん 10か月、3回のマラソンで70分のタイム短縮 水戸黄門漫遊マラソンで3時間15分40秒を出し、今年3月の東京マラソン(3時間58分11秒)から43分タイムを縮めることができました。昨年12月の湘南国際マラソンが初フルで4時間25分だったのですが、3回目のフルマラソンでこれだけタイムを縮められたことに自分でも驚いています。今回の水戸ではMin目標をサブ3.5、Max目標をサブ3.15で設定し、結果としてMax目標に近い形でゴールできて、RETOのメンバーからも「大幅PBおめでとう!」と沢山声をかけていただき、すごく嬉しかったです。レース中に声を掛け合って並走した同期の菜々子(飯塚)や現地まで応援・サポートに駆けつけてくれたRETO応援隊には本当にパワーをもらえましたし、そのおかげで自分の実力以上の走りができたと感謝しています。 自分を変えたい欲求 RETOに入って9ヶ月が経ちますが、「環境が人を変える」ということを強く感じています。というのも、以前までの自分はランニングもジムも始めては辞めの繰り返しで、なかなかモチベーションが保てず、継続してトレーニングを行うことが出来ずにいました。そんな意志の弱い自分を変えたいという思いもあり、「RETO RUNNING CLUB」の募集をインターネットで偶然見つけ、思い切って応募しました。 身についたランニングの習慣 RETOでは、メンバーそれぞれが自分の目標を持っていて、それを達成するためにチームでサポートしながら共に高め合う雰囲気があるので、自ずと頑張ろうという気持ちになれます。隔週の公式練習会以外にもメンバー企画の定期的な朝練や週末練習会が多くあるおかげで、自然とランニングする習慣が身に付きましたし、コーチ陣やメンバーから都度アドバイスをもらえ、ランニングの知識もだいぶついてきました。 また、普段の練習記録をストラバというランニングアプリで管理、シェアしているのですが、仲間の練習内容を見てモチベーションに役立てています。自分があまり走れていないときは変に焦ってしまうので、その時は敢えて見ないようにするなどして都合よく使っています(笑) 水戸への流れ RETOに入ってからランニングに対する意識が変わって、行動が変わったのは間違いないです。これまで月間100km走れば満足していた自分が、気付けば月間250〜300kmを継続して走るようになり、すっかりランニングが生活の一部になりました。走行距離が増えることでケガのリスクも高まるので、少しでも足に違和感が出たときは練習量を落としたり、思い切って休むなどしてケガをしないように調整してきました。6〜8月は暑くてスピードも出なかったので走行距離に重きを置き、9月に入ってからジョグのペースを上げたり、ジョグの後にウィンドスプリントを入れたりと練習の質も意識して取り組みました。水戸のちょうど1週間前に東京レガシーハーフに出走したのですが、そこで今年6月に出したハーフタイムのPBを7分更新することができ、これまでの練習に手応えを感じることが出来ました。レガシーで良い流れを作って、水戸にそのまま臨めたことが良かったように思います。 目標に挑戦し、達成感を得る ―なぜ、走るのですか。 健康維持や体形維持のためという点は以前と変わりませんが、RETOに入ってからは自分で決めた目標にチャレンジして達成感を得るためという理由がそこに加わりました。正直、大人になってからここまで夢中になれること、成長を感じられることが見つかるとは思っていませんでしたし、これまでより明らかにライフが充実しているように感じます。ちょっとした悩み事も走ったらそのモヤモヤが晴れてスッキリしたなんてことは結構ありますし、走った分ごはんもお酒も美味しいし、日々の生活に良いことしかありません。最近では、小1の娘が急に「今度パパと走りたい!」と言ってくれ、年末に親子マラソンに出ることになりました。自分の趣味に娘が興味を持ってくれたことは嬉しいことですし、これを機に娘が少しでも走ることを好きになるようにサポートしていきたいと思います。今後も自分のマラソンの目標はしっかりと追いかけつつ、仲間の目標の応援やトレイルへの挑戦など活動範囲を広げてランニングライフをもっと楽しみたいと思います。
マラソンが自分の潜在能力を引き出してくれる
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール Bチーム(目標:フルマラソンsub 3時間30分)MVP 木村太さん 清々しい気持ちで終えた横浜マラソン 横浜マラソンで、サブ3.5(3時間23分20秒)を達成しましたが、ここまでタイムが出るとは正直、思っていなかったです。それまでの自己ベストは昨年の京都マラソンのタイム(3時間48分05秒)で、今年の大阪マラソンは撃沈(3時間57分53秒)したので、横浜ではなんとか30分を切れたらいいなと思っていました。 横浜は、高速道路のバンクが厳しいとか、タイムを出すのが難しいとか、いろいろ言われていたのですが、実際、走ってみると想像以上にキツかったです。高速道路には応援がいないですし、車で走っている時とは全然違う表情で、本当に自分との戦いでした。そこで我慢できたのは、RETOの厳しい練習を乗り越えてきたというのを思い出しながら走ることができたからです。ハーフで余力があったので、サブ3.5のペーサーを抜いた時ぐらいから30分切れるかなと思いました。ゴールした時、「こんなタイムで走ってたの?」とビックリしましたし、いつもはレース後、足が攣ってぶっ倒れているんですけど、その時はそういうこともなく、清々しい気持ちで終えることができました。 お互いを高め合う刺激 大阪から横浜までの期間での取り組みで一番プラスになったのは、やはりRETOに入ったことです。僕は9期(2024年5月~7月)から入ったのですが、初めてRETOの練習会に出た時、みんながぶっ倒れるまで走る姿を見て、「みんなすごいし、場違いなところに来ちゃったな」と思いました。でも、Bチームでみなさんの背中を見て走っていると、すごく頑張っているのが伝わってきましたし、チーム全体がそれぞれの目標に向かって自分を追い込みながらお互いを高め合っているのを見て、自分も頑張ってみようと思いました。本当に、RETOではみなさんからすごくエネルギーをもらっています。 ランで健康体に 練習はRETOをベースに、あとはストラバでみんなが走っているのを見て、刺激を受け、可能な限り走るようにしていました。月間の走行距離は、180キロぐらいでした。それまで100キロぐらいしか走っていなかったので、自分のなかでは大きな変化です。走るのは基本的に土日で、平日は仕事で帰ってきた後、お風呂を沸かしている間に少しでも走るという感じで、距離を積み重ねていきました。走っていく中で体重が減り、体調がすごく良くなりましたし、健康診断の検査値も良くなり、良いことしかないですね。 自分の人生が変わった 僕は、もともとマラソンとか長い距離を走るのが好きではなかったんです。ずっと野球をしていて、走り始めたのは社会人になり、会社の先輩に誘われたのがキッカケでした。もう7年ぐらい前ですが、初めて走ったのが湘南国際マラソンです。それからも一人で走り続けて、年に1、2回ペースでマラソンに出ていました。数年前に東京に転勤になり、単発で練習会に出ていたのですが、お酒を飲んでいる時にFacebookでRETOの募集を見て、勢いで応募しました。運良く入ることができて良かったですし、マラソンとの向き合い方はもちろん、自分の人生が変わりましたね。 マラソンが自分の成長を引き出す ―なぜ、走るのですか。 今までは、マラソンを走ってゴールし、その達成感を感じ続けたいと思って走っていたのですが、最近ちょっと考えが変わってきました。正直、この年齢でここまでタイムが伸びるとは考えていませんでした。でも、実際にすごく伸びてきている現実を見ると、自分が気が付いていないだけで、まだまだ成長できる部分があるのかなと思いました。それを引き出してくれるのがマラソンなのかなと思います。これは自分の生き方とか仕事に通じる部分でもあると思っているので、これからも走って自分の潜在能力をどんどん引き出して成長して行けたらと思っています。
マラソンが自分の潜在能力を引き出してくれる
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール Bチーム(目標:フルマラソンsub 3時間30分)MVP 木村太さん 清々しい気持ちで終えた横浜マラソン 横浜マラソンで、サブ3.5(3時間23分20秒)を達成しましたが、ここまでタイムが出るとは正直、思っていなかったです。それまでの自己ベストは昨年の京都マラソンのタイム(3時間48分05秒)で、今年の大阪マラソンは撃沈(3時間57分53秒)したので、横浜ではなんとか30分を切れたらいいなと思っていました。 横浜は、高速道路のバンクが厳しいとか、タイムを出すのが難しいとか、いろいろ言われていたのですが、実際、走ってみると想像以上にキツかったです。高速道路には応援がいないですし、車で走っている時とは全然違う表情で、本当に自分との戦いでした。そこで我慢できたのは、RETOの厳しい練習を乗り越えてきたというのを思い出しながら走ることができたからです。ハーフで余力があったので、サブ3.5のペーサーを抜いた時ぐらいから30分切れるかなと思いました。ゴールした時、「こんなタイムで走ってたの?」とビックリしましたし、いつもはレース後、足が攣ってぶっ倒れているんですけど、その時はそういうこともなく、清々しい気持ちで終えることができました。 お互いを高め合う刺激 大阪から横浜までの期間での取り組みで一番プラスになったのは、やはりRETOに入ったことです。僕は9期(2024年5月~7月)から入ったのですが、初めてRETOの練習会に出た時、みんながぶっ倒れるまで走る姿を見て、「みんなすごいし、場違いなところに来ちゃったな」と思いました。でも、Bチームでみなさんの背中を見て走っていると、すごく頑張っているのが伝わってきましたし、チーム全体がそれぞれの目標に向かって自分を追い込みながらお互いを高め合っているのを見て、自分も頑張ってみようと思いました。本当に、RETOではみなさんからすごくエネルギーをもらっています。 ランで健康体に 練習はRETOをベースに、あとはストラバでみんなが走っているのを見て、刺激を受け、可能な限り走るようにしていました。月間の走行距離は、180キロぐらいでした。それまで100キロぐらいしか走っていなかったので、自分のなかでは大きな変化です。走るのは基本的に土日で、平日は仕事で帰ってきた後、お風呂を沸かしている間に少しでも走るという感じで、距離を積み重ねていきました。走っていく中で体重が減り、体調がすごく良くなりましたし、健康診断の検査値も良くなり、良いことしかないですね。 自分の人生が変わった 僕は、もともとマラソンとか長い距離を走るのが好きではなかったんです。ずっと野球をしていて、走り始めたのは社会人になり、会社の先輩に誘われたのがキッカケでした。もう7年ぐらい前ですが、初めて走ったのが湘南国際マラソンです。それからも一人で走り続けて、年に1、2回ペースでマラソンに出ていました。数年前に東京に転勤になり、単発で練習会に出ていたのですが、お酒を飲んでいる時にFacebookでRETOの募集を見て、勢いで応募しました。運良く入ることができて良かったですし、マラソンとの向き合い方はもちろん、自分の人生が変わりましたね。 マラソンが自分の成長を引き出す ―なぜ、走るのですか。 今までは、マラソンを走ってゴールし、その達成感を感じ続けたいと思って走っていたのですが、最近ちょっと考えが変わってきました。正直、この年齢でここまでタイムが伸びるとは考えていませんでした。でも、実際にすごく伸びてきている現実を見ると、自分が気が付いていないだけで、まだまだ成長できる部分があるのかなと思いました。それを引き出してくれるのがマラソンなのかなと思います。これは自分の生き方とか仕事に通じる部分でもあると思っているので、これからも走って自分の潜在能力をどんどん引き出して成長して行けたらと思っています。
頭の中、80%がマラソンです。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール A2チーム(目標:フルマラソンsub3時間10分)MVP 飯塚菜々子さん 7年ぶりにラン再開 初フルのホノルル(昨年12月)から水戸漫遊マラソンまで、1年かからずに40分近くタイムを縮めることができたのは、自分でもちょっとびっくりしました。 私は中高で、陸上をしていました。ただ、中学の時は、陸上部がなく、寄せ集めで駅伝を走っていて、高校は陸上部に入って中長距離を専門に走っていました。卒業後は、気が向いた時にジョグするぐらいで、走り始めたのは、昨年6月からです。麻美(松下)さんと職場が一緒で、結婚式に出るためにダイエットするから走ることになり、ベジタブルマラソンの10キロに出ました。約7年間、まともに走っていなかったのですが、「意外と走れるじゃん」と思って楽しくなり、それから麻美さんと二人で走るようになりました。 初フルのホノルルでサブ4達成 その後、フルマラソンを走りたくなり、ひとりでホノルルに行って、サブ4を達成することができました。周囲の人から「狙う大会じゃないし、もったいないよ」と言われたのですが、ホノルルでサブ4をしたいなって思ったんです。次のレースでは絶対にサブ3.5をしたいと思い、ポイント練習ができるような練習会に行くようになりました。ここでランニングのスイッチが入りましたね。今年2月、大阪マラソンでサブ3.5(3時間23分30秒)を達成し、水戸漫遊で15分(3時間13分41秒)を切ることができました。 ケガ予防を重視 水戸で自己ベストを更新できたのは、3月に病練勤務を辞めて9月からまた働き始めたのですが、その間走る時間が増えたのが大きかったです。月間走行距離でいうと270キロから300キロぐらい走っていました。その際、気を付けていたのは怪我を絶対にしたくないので無理をしないこと。疲れとか違和感がある時は休んだり、距離を落としたりしていました。あと、ご飯をたくさん食べるようにしています。体重を減らした時は体調があまり良くなくて、食べた方が体が元気で、風邪を引いたり、大きな怪我もしていません。 大阪国際がモチベーション RETOは2月の8期からです。私が今、走っているのは、RETOの仲間から刺激を受けているのが大きいです。やまあす(山本明日香)、智世(竹輪)さんとは一緒に練習する機会が多く、大阪国際を目指して一緒に頑張っていますし、練習メニューが辛くて、みんなで声を掛け合ってできた時の達成感とか、めちゃ最高だなと思いますね。 6月の合宿の時に聖也さんに「大阪国際、狙えるんじゃない」と言われて、大阪国際を意識し始めました。今年、大阪マラソンを走った時、大阪国際に行けるようなレベルで走れるとは思わなかったですが、今は出るという気持ちが強いです。茉美(新里)ちゃんとかと「みんなで大阪国際、がんばろう」と刺激し合っていますが、たぶん一人で走っていたら大阪国際を狙おうとは思わなかったでしょう。 生活の軸にあるもの 今は、頭の中は80%以上、マラソンが占めていて、ランニング中心の生活になっています。転職を考えた時も週末にレースがあるし、個人の練習会もあるので土日は休みがいいし、夜勤すると体調が崩れるので夜勤がないところを探していました。職場の人には、「今日も走って来たの?」、「今から走りにいくの」ってドン引きされていますけど、やっぱり走るのは楽しいですね。 人生を充実させてくれるランニング ―なぜ、走るのですか。 生活の充実度を高めるためです。あと、私の仕事の訪問看護は一人で利用者さんのところに行くのですごく責任が重たいですし、残業もあるのでストレス発散のために走ることもあります。走った後は、ご飯もお酒もおいしい。人生そのものを充実させるために走っています。
頭の中、80%がマラソンです。
RRC member interview text:Shun Sato 第10クール A2チーム(目標:フルマラソンsub3時間10分)MVP 飯塚菜々子さん 7年ぶりにラン再開 初フルのホノルル(昨年12月)から水戸漫遊マラソンまで、1年かからずに40分近くタイムを縮めることができたのは、自分でもちょっとびっくりしました。 私は中高で、陸上をしていました。ただ、中学の時は、陸上部がなく、寄せ集めで駅伝を走っていて、高校は陸上部に入って中長距離を専門に走っていました。卒業後は、気が向いた時にジョグするぐらいで、走り始めたのは、昨年6月からです。麻美(松下)さんと職場が一緒で、結婚式に出るためにダイエットするから走ることになり、ベジタブルマラソンの10キロに出ました。約7年間、まともに走っていなかったのですが、「意外と走れるじゃん」と思って楽しくなり、それから麻美さんと二人で走るようになりました。 初フルのホノルルでサブ4達成 その後、フルマラソンを走りたくなり、ひとりでホノルルに行って、サブ4を達成することができました。周囲の人から「狙う大会じゃないし、もったいないよ」と言われたのですが、ホノルルでサブ4をしたいなって思ったんです。次のレースでは絶対にサブ3.5をしたいと思い、ポイント練習ができるような練習会に行くようになりました。ここでランニングのスイッチが入りましたね。今年2月、大阪マラソンでサブ3.5(3時間23分30秒)を達成し、水戸漫遊で15分(3時間13分41秒)を切ることができました。 ケガ予防を重視 水戸で自己ベストを更新できたのは、3月に病練勤務を辞めて9月からまた働き始めたのですが、その間走る時間が増えたのが大きかったです。月間走行距離でいうと270キロから300キロぐらい走っていました。その際、気を付けていたのは怪我を絶対にしたくないので無理をしないこと。疲れとか違和感がある時は休んだり、距離を落としたりしていました。あと、ご飯をたくさん食べるようにしています。体重を減らした時は体調があまり良くなくて、食べた方が体が元気で、風邪を引いたり、大きな怪我もしていません。 大阪国際がモチベーション RETOは2月の8期からです。私が今、走っているのは、RETOの仲間から刺激を受けているのが大きいです。やまあす(山本明日香)、智世(竹輪)さんとは一緒に練習する機会が多く、大阪国際を目指して一緒に頑張っていますし、練習メニューが辛くて、みんなで声を掛け合ってできた時の達成感とか、めちゃ最高だなと思いますね。 6月の合宿の時に聖也さんに「大阪国際、狙えるんじゃない」と言われて、大阪国際を意識し始めました。今年、大阪マラソンを走った時、大阪国際に行けるようなレベルで走れるとは思わなかったですが、今は出るという気持ちが強いです。茉美(新里)ちゃんとかと「みんなで大阪国際、がんばろう」と刺激し合っていますが、たぶん一人で走っていたら大阪国際を狙おうとは思わなかったでしょう。 生活の軸にあるもの 今は、頭の中は80%以上、マラソンが占めていて、ランニング中心の生活になっています。転職を考えた時も週末にレースがあるし、個人の練習会もあるので土日は休みがいいし、夜勤すると体調が崩れるので夜勤がないところを探していました。職場の人には、「今日も走って来たの?」、「今から走りにいくの」ってドン引きされていますけど、やっぱり走るのは楽しいですね。 人生を充実させてくれるランニング ―なぜ、走るのですか。 生活の充実度を高めるためです。あと、私の仕事の訪問看護は一人で利用者さんのところに行くのですごく責任が重たいですし、残業もあるのでストレス発散のために走ることもあります。走った後は、ご飯もお酒もおいしい。人生そのものを充実させるために走っています。
サブ3とELDORESO世界進出への挑戦
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 後篇 Text:Shun Sato ELDORESOの誕生前夜、前述のアウトドアショップのオーナーが新たにランニングショップをオープンする記念にと、別注品を依頼され、最初に作ったのが綿麻のキャップだった。 ただ、阿久澤隆さんは、スポーツの商品を作るのには、抵抗があった。 「スポーツものって、素材とか性能も含めて素人が手を出しちゃダメでしょと思っていたんです。そうしたら『なんでもいいよ』と言われたので、スポーツにまったく適さない綿麻の生地でキャップを作ったんです。洗うと色落ちしていくんですけど、それがびっくりするくらい反響があって、メリカリに出るとすぐに何倍もの価格で売れている状態になったんです。それまで商品を作って来て、著名人が身に着けたわけでもないのに、こんなことになるのは1度もなかった。『あれ、これいいんじゃない?』と思い、そこから品数を増やしていきました」 ELDORESOのスタート 再び走り出してから3年の歳月をかけ2016年、ELDORESOの商品販売をスタートした。 それまでデザイン的にシンプルで、カラーバリエーションが少なかったランニングウエアに革命を起こし、ELDORESOは機能性に加え、独特の尖ったデザインとカラーでランナーに支持されるようになった。ラン二ング文化と古き良きアメリカのカルチャーの混血から生まれたような商品で、コンセプトがしっかりと練られている感じがするが、阿久澤さんは、「いやいや」と苦笑して、こう語る。 「ものつくりのコンセプトって特にないんです。展示会があるので、期間内にサンプルを出さないといけない。その締め切りに追われてバァーと考えて作る感じです。1年先、2年先を読むとかもしないですね。たぶん3年後も同じようなものを作っていると思います。でも、それが『あいつっぽいよね』となって、トータルで見るとひとつのコンセプトになっていると思います」 デザインは、どのように考えているのだろうか。 「デザインは、何かをモチーフにしたり、何かにインスパイアされてっていうのはないですね。締め切り間近に突然、デザインが頭に降りてくることもないです(笑)。ただ、古着が好きなので、昔から見ていたものが活かされているところはあるかもしれない。僕が大事にしているのは、最初にこうだって思ったものからブレないこと。ひねっていくと、自分じゃないアイデアとかが入って来て、世の中にある同じようなものになってしまう。だから、4人でやっていた頃の経験がすごく生きています。大事なのは、人に流されないで、自分が好きなものだけを作るということです」 自分への挑戦状 ELDORESOの人気が上がっていくと、阿久澤さんのランニングに対する向き合い方に変化が生じた。マラソンを走るようになり、「ELDORESOの阿久澤」として、多くの人に知られるようになった。すると「ELDORESOを作っているヤツより、俺の方が速かった」という声が耳に入ってくるようになった。 「そこは聞き流せなかったですね(笑)。最初の頃はマラソンのタイムが4時間50分ぐらいだったんですけど、飲み会で『元陸上部なのに遅いね』って言われて、ちょっとバカにされるキャラみたいになってきたんです。自分がみんなと比較されるようになり、『ちきしょう、負けたくない。だったら速くなろう』と思ったので走るようになりました」 マラソンのおもしろさ マラソンは自分の力がタイムに正確に出る。元陸上部としては、タイムにはこだわりがあった。そのため、マラソンを主戦場にし、コツコツと努力を重ねた。今年2月の別府大分毎日マラソンで、3時間03分20秒を出し、目標のサブ3が見えてきた。 「目標はサブ3って言い出して、もう何年も経っているんですが、ちょっとずつ近づいてきています。ただ、ここ最近は、20秒ぐらいずつしか更新できなくて、『これ、サブ3まで何年かかるんだよ』って思うんですが、だから楽しいんです(笑)。そう簡単にいかないところにマラソンのおもしろさがあると思います」 チーム活動の愉しさ マラソンを含めランニングの活動は、より活発化している。 2021年、ランニングクラブ「LOUD RUNNERS(ラウドランナーズ)」を立ち上げ、チームユニフォームを作り、練習会に参加している。レースや練習で走る仲間を応援し、大学の後輩であり、社員でもある山口純平選手がマラソンや100キロのレースに出る際には現地でサポートしている。 「メンバーがタイムを出すのはうれしいですし、応援したりするのはめちゃくちゃ楽しいですね。純平もそうですが、やはり身近な人を応援するっていうのは同じ応援でも中身がぜんぜん違う。気持ちが入りますから」 パリ五輪での経験...
サブ3とELDORESO世界進出への挑戦
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 後篇 Text:Shun Sato ELDORESOの誕生前夜、前述のアウトドアショップのオーナーが新たにランニングショップをオープンする記念にと、別注品を依頼され、最初に作ったのが綿麻のキャップだった。 ただ、阿久澤隆さんは、スポーツの商品を作るのには、抵抗があった。 「スポーツものって、素材とか性能も含めて素人が手を出しちゃダメでしょと思っていたんです。そうしたら『なんでもいいよ』と言われたので、スポーツにまったく適さない綿麻の生地でキャップを作ったんです。洗うと色落ちしていくんですけど、それがびっくりするくらい反響があって、メリカリに出るとすぐに何倍もの価格で売れている状態になったんです。それまで商品を作って来て、著名人が身に着けたわけでもないのに、こんなことになるのは1度もなかった。『あれ、これいいんじゃない?』と思い、そこから品数を増やしていきました」 ELDORESOのスタート 再び走り出してから3年の歳月をかけ2016年、ELDORESOの商品販売をスタートした。 それまでデザイン的にシンプルで、カラーバリエーションが少なかったランニングウエアに革命を起こし、ELDORESOは機能性に加え、独特の尖ったデザインとカラーでランナーに支持されるようになった。ラン二ング文化と古き良きアメリカのカルチャーの混血から生まれたような商品で、コンセプトがしっかりと練られている感じがするが、阿久澤さんは、「いやいや」と苦笑して、こう語る。 「ものつくりのコンセプトって特にないんです。展示会があるので、期間内にサンプルを出さないといけない。その締め切りに追われてバァーと考えて作る感じです。1年先、2年先を読むとかもしないですね。たぶん3年後も同じようなものを作っていると思います。でも、それが『あいつっぽいよね』となって、トータルで見るとひとつのコンセプトになっていると思います」 デザインは、どのように考えているのだろうか。 「デザインは、何かをモチーフにしたり、何かにインスパイアされてっていうのはないですね。締め切り間近に突然、デザインが頭に降りてくることもないです(笑)。ただ、古着が好きなので、昔から見ていたものが活かされているところはあるかもしれない。僕が大事にしているのは、最初にこうだって思ったものからブレないこと。ひねっていくと、自分じゃないアイデアとかが入って来て、世の中にある同じようなものになってしまう。だから、4人でやっていた頃の経験がすごく生きています。大事なのは、人に流されないで、自分が好きなものだけを作るということです」 自分への挑戦状 ELDORESOの人気が上がっていくと、阿久澤さんのランニングに対する向き合い方に変化が生じた。マラソンを走るようになり、「ELDORESOの阿久澤」として、多くの人に知られるようになった。すると「ELDORESOを作っているヤツより、俺の方が速かった」という声が耳に入ってくるようになった。 「そこは聞き流せなかったですね(笑)。最初の頃はマラソンのタイムが4時間50分ぐらいだったんですけど、飲み会で『元陸上部なのに遅いね』って言われて、ちょっとバカにされるキャラみたいになってきたんです。自分がみんなと比較されるようになり、『ちきしょう、負けたくない。だったら速くなろう』と思ったので走るようになりました」 マラソンのおもしろさ マラソンは自分の力がタイムに正確に出る。元陸上部としては、タイムにはこだわりがあった。そのため、マラソンを主戦場にし、コツコツと努力を重ねた。今年2月の別府大分毎日マラソンで、3時間03分20秒を出し、目標のサブ3が見えてきた。 「目標はサブ3って言い出して、もう何年も経っているんですが、ちょっとずつ近づいてきています。ただ、ここ最近は、20秒ぐらいずつしか更新できなくて、『これ、サブ3まで何年かかるんだよ』って思うんですが、だから楽しいんです(笑)。そう簡単にいかないところにマラソンのおもしろさがあると思います」 チーム活動の愉しさ マラソンを含めランニングの活動は、より活発化している。 2021年、ランニングクラブ「LOUD RUNNERS(ラウドランナーズ)」を立ち上げ、チームユニフォームを作り、練習会に参加している。レースや練習で走る仲間を応援し、大学の後輩であり、社員でもある山口純平選手がマラソンや100キロのレースに出る際には現地でサポートしている。 「メンバーがタイムを出すのはうれしいですし、応援したりするのはめちゃくちゃ楽しいですね。純平もそうですが、やはり身近な人を応援するっていうのは同じ応援でも中身がぜんぜん違う。気持ちが入りますから」 パリ五輪での経験...
ドロップアウトからの成り上がり
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 前編 Text:Shun Sato 「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」 そんな声がランナーから聞こえてくる。 高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。 陸上の強豪校へ 「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」 阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。 「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」 名門陸上部での試練 桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。 「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」 大学3年でのドロップアウト 憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。 「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」 トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。 大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。 「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」 寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。 閉ざされた正社員への道 大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。 「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」 阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。...
ドロップアウトからの成り上がり
Why I Run:Stories from Runners vol.3阿久澤隆さん 前編 Text:Shun Sato 「クール」「独特のカッコ良さ」「抜群の存在感」 そんな声がランナーから聞こえてくる。 高校生から市民ランナー、実業団の選手にまで愛されているブランドが「ELDORESO」だ。阿久澤隆さんは、そのオーナーであり、ランナーでもある。国士舘大学陸上部で箱根駅伝を目指しながらも大学3年の時にドロップアウトして、紆余曲折を経てブランドを立ち上げた。なぜ、ELDORESOはランナーに支持され、人気ブランドになったのか。そして、一度は走る世界から離れた阿久澤さんは、なぜ再び戻って来たのだろうか。 陸上の強豪校へ 「私立高校の受験に失敗したのが、陸上の始まりでした」 阿久澤さんは、苦笑交じりの表情で、そう語る。 「公立高校が本命だけど、自分の頭じゃ無理。その前の私立の滑り止めに落ちたので『やべぇ、どうしよう』と思って、担任の先生に相談したんです。僕はバスケ部だったんですけど、校内のマラソン大会では速い方だったので、『陸上が強いところがあるから聞いてみる』と言われて。しばらくして、勧められたのが桐生工業高校でした」 名門陸上部での試練 桐生工業高校は、群馬県でも有数の陸上強豪校で都大路を目指すガチンコの陸上部だった。阿久澤さんは陸上未経験だったが、入学に尽力してくれた先生への恩義もあり、入学後、陸上部に入った。 「陸上部は、個人で北関東大会に行けたりして、意外と楽しかったです。でも、みんな速すぎて駅伝チームには入れなかった。高2の時、チームが都大路で7位になったんですが、高3になったら先輩が卒業するし、レギュラーになれるかなと思ったんです。でも、一個下の諏訪(利成・現上武大監督)君に加え、1年生もみんな速くて結局1度も駅伝でレギュラーにはなれず、ずっと補欠でした」 大学3年でのドロップアウト 憧れの都大路は走れなかったが、大学では箱根駅伝を走りたいと思った。特待生ではなかったが、推薦で国士舘大学に進学した。 「高校では悔しい思いをしたので、大学では箱根を絶対に走るぞって思っていました。でも、入ったら陸上競技部の人数が多くて、僕ら1年生も30名ぐらいいたんです。全体では100名を超えていましたね。練習が始まると、みんなの実力が見えてくるじゃないですか。これはどう頑張っても予選会のメンバーには入れない。「俺の実力では箱根走れねぇーな」と分かったので、1年の途中から合コンしたり、クラブに行って遊ぶようになって。まぁどうしようもなかったですね(苦笑)」 トラックではなく、夜の街を走り回り、箱根駅伝予選会のメンバー入りは果てしなく遠くなっていった。 大学3年の夏休みに入る前、阿久澤さんは突然、陸上部を退部した。 「ダラダラと部活を続けていても意味ないと思っていたんですが、自己ベストにはこだわっていました。そのために練習して、夏前の中大記録会で14分52秒(5000m)の自己ベストを出せたんです。箱根は無理だけど、やり切った感がすごくあったので、そのままスパっと退部しました。陸上が嫌いになったわけじゃないですけど、やめた本当の理由は正直、今もよくわからないです(苦笑)」 寮を出ると下北沢に引っ越して、渋谷の神泉のラブホテルの清掃と洋服屋でアルバイトを始めた。ラブホテルの清掃係は外国人やオバさんたちを始め、人間が面白く、昼の空き時間はデザインを考えたり、ゲームができたりしたので、最高のバイトだった。 閉ざされた正社員への道 大学卒業後は、就職せずにラブホテルでバイトをしながら代官山にあるハリウッドランチマーケットでアルバイトを始めた。80年代から人気のブランドで、阿久澤さんはそこで海外からの商品を検品するなど商品管理の仕事をしていた。 「店はすごい人気で、仕事も楽しかった。ここの社員になってバイヤーになりたいと思ったので、半年に1回ある社員の試験を受けたんです。論文方式ですが、テーマが、『あなたにとって聖林公司(ハリウッドランチマーケットの運営会社)とは』『聖林公司であなたは何したいですか』『聖林公司で10年後、あなたは何をしていると思いますか』という感じでほぼ同じなんです。半年後に違うこと書いたら前に書いたことが嘘になるので、毎回同じようなことを書いていたら4回連続で落されて‥‥。もうガッカリでしたね」 阿久澤さんは、3年間働いたハリウッドランチマーケットを辞め、とらばーゆ(求人誌)で見つけたアパレル会社に就職した。2年ほど経過した時、大学時代の友人が文化服装学院に入り、「アパレルを一緒にやらないか」と声を掛けられた。「おもしろそうだな」と思い、仲間4人でアパレルブランドを設立した。就職した会社は3年間でやめ、ラブホテルを始め、3つのアルバイトを掛け持ちしながら夢を見た。...
応援ランナーがわたしの生きがい
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 後編 Text:Shun Sato パンを食べて走っても強くなる 芦野さやかさんは、2022年10月から皇居近くのRe.Ra.KuPRO永田町RUNNING&CAFEというランニングステーションを軸に活動している。 人と人、人とモノ、人と場所が繋がれる、コミュニティの場を作れるような活動を恒常的にしていきたいという想いから、出会ったのがこのランステだ。 「店長さんを紹介していただいて、ここなら会社から近く、カフェスペースもあり、走った後に交流ができる。私がやりたいコミュニティとか、みんなが楽しめる場とか、人とのつながりを持てる場になると思ったんです。コロナ禍以降利用者さんが減ったという平日の朝、ランステや皇居ランが盛り上がる様にと始めさせてもらったのですが、最初は誰も来なかったどうしようと不安もありました」 ここを拠点にパンランや70キロ走など、いろんなイベントを開催しており、インスタからは楽しさが伝わってくる。とりわけ、8年前に個人で始め、2019年に本格的にスタートしたパンランは、人気のイベントだ。 「パンランは、私は内臓が弱くてマラソン後に食事が採れないし、ウルトラでも70キロ以降、何も食べられなかったので、食べて走る練習として始めました。パン屋さんは夜な夜なパンスタグラマーさんの投稿やネットで趣味も兼ねてチェックしています。 私が参加者様全員とコミュニケーションを取りたいのと、みなさまに楽しんでいただきたくて、定員は大体16名前後。2人ペアにして街中を走り、みなさまが満遍なくコミュニケーションを取れるように列を適時入れ替えます。週末イベントは都度コースを変えていて、5〜6キロから70キロまであり、42キロパンランの時は終わった後、ログが食パンの形になるように考えました。『パン食べて走っても強くなるよ』って多くの人に実感してほしいですね(笑)」 ランの楽しさを伝導する パンランに関しては、さやかさんが先駆者になるが、最近はパンランを始めラン+食のイベントが増えている。楽しく走れると評価が高いから増えているわけだが、さやかさんは気にしていない。 「私が始めたとかではなく、パンランが盛り上がったり、パンとランを重ねることで走ることを楽しんでもらえるなら、どんどん増えていってほしいです。パンランが私の子どもだとして、それをみんなで育ててくれる感覚で、むしろうれしいです!」 だが、ビジネス的にどうなのだろうか。競合が増えると、参加する人が減ったり、回数を増やすことが難しくなることもある。 「私は、お客さんを取るという考え方が好きじゃないんです。競合=いいものにしようとお互い努力して、様々なイベントが魅力あるものになれば、参加する方も増えて、走ることに興味を持つ方が増えて…。そうしてランニング業界がもっと盛り上がると嬉しいです」 さやかさんが主催しているのは、ランニングイベントが多い。ランニングチームやランニングクラブが行なうような練習会は少ない。 「練習会は、私が陸上のコーチではないですし、指導することはできないのでメインにはならないです。私のやりたいことはそこではなくて、ランニングの楽しさを伝えたり、繋がりを作ったり、みなさまの走りを応援すること。 初心者の方がいきなりチームに入って練習…というのは少しハードルが高いけれど、私のイベントやコミュニティで気軽な気持ちで楽しめる経験をしてもらえたら、他のチームに入ったり練習会に参加しやすくなってもらえるかな…と。 運動未経験の私がランニングの入り口になって、他のチームへの橋渡しみたいなこともできるかもしれないと思っています」 退社の決断 イベントはソールドアウトになり、ブランドモデル、ゲストランナー、トレイルやウルトラの練習会など、ランニング関係の仕事が増えた。だが、会社員である以上、会社あってのランニング。実際、朝から午後9時過ぎまで会社で働き、帰宅した後、深夜3時過ぎまでランニングの仕事をこなした。こんな生活をつづけていくと体が壊れてしまう。そう思い、昨年8月頃から自分の生き方について真剣に考えるようになった。 「私は、私がする仕事でお客さまやSTAFFが笑顔になることをしたいと思ってきたんですけど、会社でのポジションや仕事の方向性が本来したいことと乖離してきて‥‥。主催するランニングイベントでは、みんなの笑顔が見られて、コミュニティから個々のつながりができたり、他の練習会やイベントにも行けるようになったと言ってもらえるようになったんです。それがうれしくて、私がやりたいことってそういうことなんだって思いました。やりたいことを優先した方が心地よく生きられる。ダメなら北海道の実家に帰ればいい。とにかくチャレンジしてみようと思い、(清水の舞台から)飛び降りました(笑)」 退社による収入減などリスクがあるが、自分らしい生き方を優先したさやかさんは、今年5月に退社、フリーでランニングの仕事を始めた。...
応援ランナーがわたしの生きがい
Why I Run:Stories from Runners vol.2 芦野さやかさん 後編 Text:Shun Sato パンを食べて走っても強くなる 芦野さやかさんは、2022年10月から皇居近くのRe.Ra.KuPRO永田町RUNNING&CAFEというランニングステーションを軸に活動している。 人と人、人とモノ、人と場所が繋がれる、コミュニティの場を作れるような活動を恒常的にしていきたいという想いから、出会ったのがこのランステだ。 「店長さんを紹介していただいて、ここなら会社から近く、カフェスペースもあり、走った後に交流ができる。私がやりたいコミュニティとか、みんなが楽しめる場とか、人とのつながりを持てる場になると思ったんです。コロナ禍以降利用者さんが減ったという平日の朝、ランステや皇居ランが盛り上がる様にと始めさせてもらったのですが、最初は誰も来なかったどうしようと不安もありました」 ここを拠点にパンランや70キロ走など、いろんなイベントを開催しており、インスタからは楽しさが伝わってくる。とりわけ、8年前に個人で始め、2019年に本格的にスタートしたパンランは、人気のイベントだ。 「パンランは、私は内臓が弱くてマラソン後に食事が採れないし、ウルトラでも70キロ以降、何も食べられなかったので、食べて走る練習として始めました。パン屋さんは夜な夜なパンスタグラマーさんの投稿やネットで趣味も兼ねてチェックしています。 私が参加者様全員とコミュニケーションを取りたいのと、みなさまに楽しんでいただきたくて、定員は大体16名前後。2人ペアにして街中を走り、みなさまが満遍なくコミュニケーションを取れるように列を適時入れ替えます。週末イベントは都度コースを変えていて、5〜6キロから70キロまであり、42キロパンランの時は終わった後、ログが食パンの形になるように考えました。『パン食べて走っても強くなるよ』って多くの人に実感してほしいですね(笑)」 ランの楽しさを伝導する パンランに関しては、さやかさんが先駆者になるが、最近はパンランを始めラン+食のイベントが増えている。楽しく走れると評価が高いから増えているわけだが、さやかさんは気にしていない。 「私が始めたとかではなく、パンランが盛り上がったり、パンとランを重ねることで走ることを楽しんでもらえるなら、どんどん増えていってほしいです。パンランが私の子どもだとして、それをみんなで育ててくれる感覚で、むしろうれしいです!」 だが、ビジネス的にどうなのだろうか。競合が増えると、参加する人が減ったり、回数を増やすことが難しくなることもある。 「私は、お客さんを取るという考え方が好きじゃないんです。競合=いいものにしようとお互い努力して、様々なイベントが魅力あるものになれば、参加する方も増えて、走ることに興味を持つ方が増えて…。そうしてランニング業界がもっと盛り上がると嬉しいです」 さやかさんが主催しているのは、ランニングイベントが多い。ランニングチームやランニングクラブが行なうような練習会は少ない。 「練習会は、私が陸上のコーチではないですし、指導することはできないのでメインにはならないです。私のやりたいことはそこではなくて、ランニングの楽しさを伝えたり、繋がりを作ったり、みなさまの走りを応援すること。 初心者の方がいきなりチームに入って練習…というのは少しハードルが高いけれど、私のイベントやコミュニティで気軽な気持ちで楽しめる経験をしてもらえたら、他のチームに入ったり練習会に参加しやすくなってもらえるかな…と。 運動未経験の私がランニングの入り口になって、他のチームへの橋渡しみたいなこともできるかもしれないと思っています」 退社の決断 イベントはソールドアウトになり、ブランドモデル、ゲストランナー、トレイルやウルトラの練習会など、ランニング関係の仕事が増えた。だが、会社員である以上、会社あってのランニング。実際、朝から午後9時過ぎまで会社で働き、帰宅した後、深夜3時過ぎまでランニングの仕事をこなした。こんな生活をつづけていくと体が壊れてしまう。そう思い、昨年8月頃から自分の生き方について真剣に考えるようになった。 「私は、私がする仕事でお客さまやSTAFFが笑顔になることをしたいと思ってきたんですけど、会社でのポジションや仕事の方向性が本来したいことと乖離してきて‥‥。主催するランニングイベントでは、みんなの笑顔が見られて、コミュニティから個々のつながりができたり、他の練習会やイベントにも行けるようになったと言ってもらえるようになったんです。それがうれしくて、私がやりたいことってそういうことなんだって思いました。やりたいことを優先した方が心地よく生きられる。ダメなら北海道の実家に帰ればいい。とにかくチャレンジしてみようと思い、(清水の舞台から)飛び降りました(笑)」 退社による収入減などリスクがあるが、自分らしい生き方を優先したさやかさんは、今年5月に退社、フリーでランニングの仕事を始めた。...