Text: Shun Sato
RUNNERS MEDICAL REPORT
マラソン、陸上長距離などの持久系種目では、ケガだけでなく、貧血などの内科的疾患のリスクも高く、実業団に所属するエリート選手や高校、大学で本格的に競技に取り組んでいる選手は、定期的に血液検査を行っていることが多い。
だるさ、息切れ、記録が伸びないなどの自覚症状が出て、ヘモグロビンなどの採血項目で数値に異常が出た場合、それを改善することで体調やスポーツパフォーマンスの回復に結びつけることができるからだ。
市民ランナーも体調が思わしくなくなったり、思うように走れないと悩んだ時、血液検査を受けることで見えない何かを明確にしてくれるので、実際に受けている人が多い。
RETO RUNNING CLUBのAさんも血液検査によって、パフォーマンス低下の原因が分かった。
感じたパフォーマンスの低下
Aさんが体に異変を感じたのは、2023年6月だった。
練習中にいきなり足が攣ったり、今までこなせていた練習に体がついていかなくなった。その後、ハーフマラソンのレースに出場したが、体が動かなくなり、14キロで途中棄権した。
「DNFした時は、暑いのに体が慣れていないから動かないのかなぁと思ったんです。でも、7月に入って暑くなるとさらに体が重く、まったくペースを上げられなくなって、もうめちゃくちゃ頑張らないと長く、速く走れないんです。4分10秒のペースはそれまでキツくなかったんですけど、それが苦しくてパフォーマンスが上がらない。『貧血じゃない?1回(血液検査に)行ってみたら』とメンバーにいわれて、8月に初めて血液検査を受けたんです」
田畑尚吾先生の田畑クリニックで血液検査を受けた結果、ヘモグロビンの数値に異常はなく、貧血ではないことが判明した。フェリチンも血清鉄も基準値で問題なかった。田畑先生が指摘したのは、男性の市民ランナーにわりと低い数値が見られるという、ある項目だった。
「Aさんの血液検査で基準値により低い数値が出たのは、テストステロンでした」(田畑先生)
聞きなれない言葉だが、テストステロンとは、男性生殖組織の発達に重要な役割を果たすと共に、筋肉や骨量の増加、体毛の成長などの二次性徴を促進する男性ホルモンで、造血ホルモンでもあるため、低下すると貧血の要因にも成り得る。
テストステロン低下の症状
テストステロンはなぜ低下し、その際、どんな症状が生じるのか。
「成人男性では、女性の妊娠・出産や、閉経前後のように、性ホルモンが急激に変化するステージはないものの、20代以降、テストステロンが徐々に低下します。低下の時期やスピードには個人差があり、早ければ30代でもテストステロン低下による更年期症状(男性機能の低下、抑うつ、睡眠障害、易疲労感など)をきたすケースもあります。また、近年では、加齢のみならず、持久系スポーツをしすぎることにより、運動性のテストステロン低下が生じることも明らかになっています。Aさんは30代で、比較的若年ではありましたが、マラソンをされているということでしたので、まずはオーバーワークによる運動性ストレスが考えられました。さらに仕事による精神的なストレスも加わり、テストステロンの数値が下がってしまった可能性があります。その結果、テストステロン低下症になり、運動のパフォーマンスが落ちたりします。また、テストステロンが低い状態が続くと、造血が障害されるリスクがあるので、貧血リスクとなりますし、男性更年期と同様、体のだるさ、睡眠障害、メタボになりやすくになったりします」(田畑先生)
ランニングや日常生活での制限
日本人男性では、遊離テストステロンを測定することが推奨されており、遊離テストステロンの基準値は、11.8pg/ml以上である。遊離テストステロンが8.5pg/ml未満では男性更年期が疑われるレベルだが、Aさんの検査時の数値は8.4pg/mlだった。運動でテストステロンが低下するメカニズムは現時点で明確化されていないが、ストレスにコルチゾールなどのホルモンの乱れ、運動による精巣へのメカニカルストレス、エネルギー不足などが関与していると考えられている。数値を改善していくために田畑先生からは、ランニングや日常生活について、いくつか制限すべきことを伝えられた。
「先生からは、運動ストレスを軽減するため、ランニングの追い込む練習、ポイント練習など強度が高いメニューを控えること。通常、適度なスポーツ活動はテストステロンを上昇させるため、ランニングをやめるのではなく、負荷を落とし、ジョグ程度のランは続けても良いとアドバイスをいただきました。それで様子を見て、改善しない場合、精神的なストレスが影響している可能性が高いのでメンタルケアをしながらホルモン補充療法を開始する方向で考えていきましょうということになりました」
悪化する症状
Aさんは、その後、ポイント練習をやめ、ジョグ主体に切り替えた。メンバーが強度の高い練習をこなして状態を上げ、レースに向かっていく姿を見ていると、走れないもどかしさを感じるようになった。焦る気持ちがよりストレスになったのか。運動時だけではなく、自宅にいてもめまいや冷や汗をかいたり、体のだるさを感じるようになった。
「徐々にいろんなことが悪化していくような気がしました」
9月の練習会に参加した時、ジョグすらできず、体が動かせなくなった。運動性ではなく、精神的なストレスの影響が大きいと感じ、心療内科のドアを叩いた。その際、以前の血液検査の結果を見せると、「テストステロンの数値が低下しているので、その治療をスタートした方がいい」と言われた。仕事も「お休みした方がいい」と言われ、診断書をもらい、会社に提出した。
再度、現状を確認しようと最初の検査から1か月後、血液検査を受けた。遊離テストステロンの数値は、前回の8.4pg/mlから7.8pg/mlに落ちていた。
「数値が落ちてきているので、ホルモン補充療法を開始しましょう」
田畑先生から、そう言われた。
テストステロンの補充療法とはいったい、どういうものなのだろうか。
「テストステロンはドーピングの禁止物質に該当するので、ドーピング検査を受ける可能性があるプロや実業団の選手には、テストステロンを補充する注射は打てません。治療は、2週間に1回程度の頻度で行います。効果があると、2、3日で自覚症状が回復していきます。男性更年期では貧血をきたすケースもありますが、テストステロン補充によりヘモグロビンの数値も上がるので、貧血も改善します。ただ、効果には個人差があるので、補充療法が効かない人もいますね。特にうつ症状などメンタルの症状が強いケースでは、男性更年期とうつ病などがオーバーラップしている場合も少なくありません。補充療法でも症状が改善しない場合には、心療内科・精神科的なアプローチも検討する必要がありますので、そこは血液データだけでなく、自覚症状の経過も確認しながら、慎重に見極めていく必要があります」(田畑先生)
うつ病の発症
Aさんは、テストステロンの補充療法を始めた。
効果があり、少し体を動かせるようになった。だが、1週間過ぎると元に戻ってしまった。1か月の休職から仕事に復帰したが、注射後の1週間は問題ないが、次の1週間は体もメンタルもギリギリの状態になった。あまりにも症状の落差が大きいので、ホルモン補充の注射を打ってもらっている泌尿器科病院の先生に相談をした。
「9月の時は、男性ホルモンが少なくて、男性更年期障害と診断されたんです。10月に入ると注射は打っているんですが、布団から起き上がれなくなり、職場では動けなくなるまで悪化して‥‥。更年期障害でそこまでいくことはないので、これはメンタルの問題の可能性が大きい。改めて心療内科で診てもらった方がいいということになりました」
心療内科で、うつ病と診断され、「抗うつ」の薬を1日1錠、飲用することになった。その後もテストステロンの数値は下がり、11月6.5pg/m、12月は6.1pg/mまで下がったが、泌尿器科の先生からは「めまいとか、そういう症状がでなければ数値は気にしないでいい」と言われた。だるさ、気分の浮き沈みなどうつ病の症状が大きかったので、ホルモン注射をやめて、抗うつの薬だけにした。
「それで十分に効果はありました。症状改善のためにはストレスフリーの環境が大事なのですが、自分にとって一番よかったのがジョグでした。走っていると気持ちがよく、それがストレスの発散になったんです。身体を動かしていることで、徐々に気持ちが前向きになりました」
自分を徐々に取り戻す
今年に入っても投薬は継続しており、ランニングもジョグの延長線上で少し負荷を上げている段階だ。3月に板橋cityマラソンを入れているが、また症状が出て仕事復帰に影響が出そうな場合、無理して出る必要はないと考えている。
「今、振り返ると血液検査でテストステロンの低下という結果を受けて、自分は病気なのかと思い、メンタルにも影響してしまった。自分が賭けていた新潟マラソン(10/8)に出走できなくなって目標を失い、さらに大きく崩れてしまった感があります。先生に言われたのですが、数値が低いのが悪いことじゃなくて、それによって症状が出てしまうのが悪いこと。症状が出なければ普通に生活していけるんですけど、数値だけで判断してしまうと、どうしようって不安が増してネガティブの沼に陥ってしまう。血液検査は、分からないものを明確にしてくれますが、特にホルモン関連の数値に関しては、個人差や変動も大きい指標なので、必要以上に神経質にならないことが大事ですね」
Aさんは、時間をかけて今、少しずつ自分を取り戻しつつある。
血液検査を受けることの意義
田畑先生は、市民ランナーが血液検査を受けることについて、こう語る。
「市民ランナーのみなさんが血液検査を受ける場合、実業団の選手のようにまめに受ける必要はなくて、通常は年に1回程度でいいと思います。ただ、貧血に代表されるように、検査をしないと診断がつかないことがありますので、調子が上がらないとか、体がだるくて、練習やレースでパフォーマンスが発揮できないなどの自覚症状が出た場合、血液検査を受けた方がいいでしょう。内科的に自分の体の状態を知ることは、日常生活を健康に送る上でも大事なことですから」
もちろん、メンタル系の疾患など、血液検査で診断がつかない疾患もあるが、除外診断の観点からは採血の意義はある。自覚症状がなくても自分の体の状態を知るなど、自己管理の意味を込めて、血液検査を受けてもいいだろう。